体育の成績が、牽引力になった。
年の瀬の15日、中学時代の恩師、吉岡由造先生の仏壇の前にいた。奥さんと長々と先生との思い出を話し終えて、お別れの挨拶をすませ、一人とぼとぼ田舎の道を歩きだした。懐かしい道だ。歩きながら考えたのは、先生が何故に私を可愛がってくれたのだろうか、私に一体、何故、あんなことを言ったのだろうか、ということだった。深い謎だ。
小学校は絶好調で過ごした。絶好調とは、自分にとって最高に気分よく過ごせたということで、その絶好調が、傍目(はため)、先生たちにはどのように映っていたのか、それは私には解らない。元気で、元気でどうしょうもなく、元気に過ごした。最高の気分だった。友達ができて、先生は日毎に知らないことを教えてくれる。教えてもらったことを家に帰って家族に話すと、みんなは喜んで聞いてくれた。
そんな子供が、そんな調子で中学校に入学した。絶好調は小学時代と変わらない。バスケットクラブに入部した。同期の入部に山岡保、福井保、奥村保と保が3人揃ったのが可笑しかった。体育クラブに入部したせいか、体育の授業は面白くて、この教科だけは真剣に授業を受けた。飛び跳(は)ねていた。先生が吉岡先生だった。
だからと言って、誰よりも足が速いわけでもなく、どの種目でも格段に秀(ひい)でていたわけでもなかったが、兎に角、体を使ってグラウンドや体育館で行う運動が快感だった。それだけのことだった。
通信簿の体育の評価が飛び抜けて良かったのには、本人も吃驚した。な~んだ、俺よりも優秀な奴がいるのに、みんなはどうしたんだろう?
そして、2年生になった頃、担任でもない吉岡先生から、「君も学校の先生になれるヨ、もう少し勉強に気合を入れて大学を目指しなさい、期待しているヨ」と言われたのだ。先生の意図はどこにあったのか、突拍子もない事を言われて、一瞬戸惑った。先生は何故、そんなに元気なんですか?という私の質問に、その的(まと)外れの返答として、このように言われたのだ。気に留めていただいていることが、嬉しかった。
父や母からは、中学校を卒業して高校に進学するのもよし、就職するのもよし、お前の好きなようにしていいと言われていたので、青天の霹靂、いきなり大学への進学を勧められたので面食らった。よく解らなかった私は、先生の言葉をそのまま鵜呑みにして、誰にも話さなかった。我が家においては、学業成績が悪かろうが良かろうが、大した問題ではなかった。当時、私の田舎では高校への進学熱が高くはなかった。
それから、ちょっとは勉強するようになった。ちょっと勉強すると嘘のように成績が上がった。みんなは勉強をさほどしてなかったのだろう。体育は勿論、算数、国語、英語、社会、理科は5段階の5に、生まれつき感性やセンスがなく、音楽と図工はどうしても普通の3~4をうろちょろ。成績が上がれば自信もつく、反則ばかりとられて嫌になりかけていたバスケットボールの練習にも一所懸命に励めた。
普通の成績だった私に、どうして先生は、君も先生になれるよ、大学を目指しなさいなんて言ったのだろう。いくら考えても謎だ。
生きているうちに問い質(ただ)したかった。