2014年1月8日水曜日

望郷編、その3 吉岡先生

20131215、横浜に帰る朝、吉岡先生の奥さんのご自宅を訪ねた。3年前に先生が亡くなられた時には、仕事の都合で駆けつけられなかった。亡くなる1年前に、病院にお見舞いに行ったときには、体だけではなく精神的にも弱っておられた。先生は、中学時代の恩師、体育の先生だった。大学への進学を大いに勧めてくれた。受験浪人中、度々お邪魔してお酒をご馳走になった。

先生は、野球部と陸上部の顧問をしながら、学校の全ての体育クラブの総括もされていた。クラスの担任ではなかった。

私たちの学校は、どのクラブも特別に強いことはなかったが、スポーツの盛んな学校で、私が所属していたバスケットボール部の休みは、年間を通じて3日もなかった。放課後、休日でも運動場や体育館は各クラブの活動で大賑わい。私はバスケットボール部員で、バスケットボールそのものに悩みを持ちながら、それでも今はやるしかない、と決め込んでいた。私が気合を入れてプレーすればするほど、ファウルをとられた。相性が合わなかった。

吉岡先生と呼んでいるけれど、実は奥さんの籍に婿養子に入られたので、姓は森田。その新しい苗字に慣れない私は、いつまでも、吉岡先生と呼んだ。死因は、多年の大量の酒飲による多臓器機能不全による疾患だ。それほどまで酒を飲むようになった理由は、いろいろ思い巡らすことはできるが、今回はそのことには触れない。仏壇に妻が用意してくれた品を供えた。

20131213同窓会、墓参り 067

壁には、先生の遺影と当時の野田佳彦総理大臣が、先生の長年に亘る教育者としての功労に対して、褒美なのか感謝状なのか、大きな賞状が掲げられていた。奥さんは、遠慮がちにこんなものをこんなところに飾って良いものか、と大いに悩んだけれども、勇気をもって飾ることにしたのよ、と仰っていた。事実、親戚の者から嫌味なのか、僻(ひが)みなのか、心無い声を聞かされたと、奥さんは嘆いていた。

実は、私が大学に行くために田舎を去った頃から、先生は強度のアルコール依存症になった。現役時代、酒魔にとり憑かれた先生を学校に家から送り出し、教育委員会に通っていた時には自殺をほのめかされ、小学校の校長で職を辞めるまでは、悲嘆に明け暮れる惨憺たるものでした、と述懐されていた。他人には言えないけれど、ヤマオカさんなら聞いてくれるよね、と先生の酒を飲んで酔っ払ってのだらしない行状を、涙をこらえて話してくれた。内助の功なんて、そんなものではなかった。でも、時間の経過と言うのは有難いもので、今では、お父さんを恨んではいません、あんなお父さんだったからか、反面教師だったのでしょう、子どもたちはいい子になりました。

ところが、私の中学時代の吉岡先生は、ムチャクチャ輝いていた。年がら年中、校内を生き生きと活動していたのに、感銘を受けたのだ。こんな大人になりたいと思った。何故?そこまで頑張れるのだろう、か?一日中グラウンドにいるので、顔は真っ黒だった。

ところで、気安く「吉岡先生」と言っているが、小学校から大学まで数多くの先生にお世話になったけれど、心底、先生と敬意を込めて言えるのは、大学時代のクラブの監督だった堀江忠男教授と、この吉岡先生の二人だけだ。欠陥だらけの吉岡先生と、人格的にも完璧で、畏(おそ)れ多い雲上の人、堀江教授。二人の先生から、学ばせていただいたことは、大だ。

二人の先生が鬼籍に入られる前に、もう少しいい教え子でありたかったと思う。