20131215
この望郷編の最後は、三十三間堂に出かけたことだ。
西念寺にある義父の墓参りを終えて三十三間堂に向かった。正式には蓮華王院(れんげおういん)という。
鴨川の流れをぼんやり眺め、七条通をぶ~らぶ~ら、余所見(よそみ)をしながら歩いた。50分から1時間ぐらいかかったかもしれない。小雨が降ってきたが、着替えはあったので、新撰組の近藤勇だったか、"春雨じゃ濡れて行こう" だ。今は冬、氷雨(ひさめ)っていう奴か?
東山連山の峰々に虹が出た。歩行者の視線は山に向いた。東の山から下りてきたハイカーさんらと一緒に振り向いて眺めた。「虹」っか!!、と、次女の数日後に迫る出産のことを考えていた。6番目の孫だ。母になる私の次女は、生まれてくる子の名前に、虹の一文字を考えている。
東西に走る七条通を東に歩いて行くと南北に通じる大和大路通にあたる、その角に、七条通を挟んで北側に京都国立博物館、南側に三十三間堂がある。観光バスが数台停まっていた。アメリカ人の高校生と思われる団体や、地方からのお年寄りの団体が多かった。団体の引率者の説明を盗み聞きしながら観覧した。
小学生か中学生の頃にも、学校の遠足か何かで来ているので、その雰囲気は蘇った。静寂の中にじとっと歴史の重さを感じた。仏像たちの数が圧巻、さながら仏像の森だ。その一体一体の形の不思議さにも魅(ひ)かれるが、それらの総量がなす空間は、異状だ。中央の中尊千手観音坐像を囲うように前後10段の階段状に1001体の「十一面千手千眼〈せんじゅうせんがん〉観世音像が並ぶ。
見たことのない人は、早く見てくださいな、私にはこの不思議さを著す言語を持ち合わせていない。
創建当時、後白河上皇は院政の立場で、血の気の多い武士ども、平清盛や源頼朝らと、丁々発止と渡り合っていた。保元、平治の乱では武家の力を利用して、朝廷内における地歩を固め、武家政権との共存を目指した。混乱の時代、民衆も武士も朝廷も、穏やかな治世を求めていたのだろう。上皇は仏教を厚く信奉(しんぽう)していた。
三十三間の間は、我々が日常的に使う長さを表す単位の間(けん、1.818メートル)ではなく、社寺建築において柱間の数を表す。
いただいたパンフレットから説明と写真をここに使わせてもらう。
日本唯一の千体観音堂
正式には蓮華王院〈国宝〉といい、長寛(ちょうかん)2年(1164)鳥辺山麓(とりべさんろく)(現・阿弥陀ケ峯)の後白河上皇・院政庁(いんぜいちょう)「法住寺殿(ほうじょうじどの)」の一画に平清盛が造進した。約80年後に焼失したが、すぐに復興に着手し、文永(ぶんえい)3年(1266)に再建された。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700余年間保存されている。長いお堂は和様の入母屋(いりもや)・本瓦葺きの「総檜造り」で約120メートル。正面の柱間が33あるところから「三十三間堂」と通称され、堂内には1001体もの観音像がまつられる。また、見落としがちだが境内・南の通称「太閤塀(たいこうべい)」と呼ばれる築地塀(ついじべい)と南大門は、ともに豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた重文・建造物である。
無限の慈悲・千体の観音立像
中央の巨像(中尊)を中心に左右に各500体(重文)、合計1001体がご本尊。正しくは「十一面千手千眼〈せんじゅうせんがん〉観世音」といい、当院の像は檜材の「寄木造り」で、頭上の11の顔と40種の手に表現される。等身立像の中、124体はお堂創建時の平安期のもので、他の800余体は鎌倉期の再建の折に約16年かけて復興された。
国宝雷神と風神像
堂内両端のひときわ高い雲座(くもざ)にのった風神と雷神像は力強く躍動的。古代人の自然や天候に対する畏(おそ)れや感謝の心が、空想的な二神を創造し、風雨をつかさどり、「五穀豊穣」をもたらす神々として信仰された。太鼓を打つ雷さまと風の袋をかかえた風の神というイメージを決定づけた鎌倉彫刻の名品〈国宝〉である。
国宝観音二十八部衆像
観音像の前列と中尊の四方に位置する変化に富んだ28体の仏像〈国宝〉は、千手観音とその信者をまもるという神々でインド起源のものが多く、その神話的な姿が迫真的に表現されている。技法的には檜材の「寄木造り」で、仏像の手や顔を別々に刻んで接着し、漆を縫って彩色(さいしき)仕上げをしたものである。目にはより写実性を高めるため、水晶をはめ込む「玉眼(ぎょくがん)」という技法が用いられている。
楊枝(やなぎ)のお加持(かじ)と通(とお)し矢(や)
「楊枝のお加持」は毎年1月中旬に行われる当院最大の縁日で「頭痛封じ」にご利益(りやく)があるといわれる。境内は無料公開され、全国から約2万人が群参する。お堂の西庭では、終日、古儀・通し矢(江戸時代に外縁で行われた弓の競技で、堂内に残る多数の絵馬はその記録)にちなむ弓道大会が催され、特に成人を迎えた女性たちの晴れ着での競技は、いまや正月の風物詩となっている。
曇空、閉門の4時で、巷間、夕闇が急に迫ってきて、東寺まで足を伸ばそうと思っていたが諦めた。
その後は、京都駅前タワーでウドン(うろん)を食ってビールを飲んで、京都駅構内探索と京都駅前タワーの地下で風呂に入って、たっぷりと時間調整をした。風呂は意外にも空いていた。