20131215 横浜に戻るために実家を12:00に出た。朝からは、中学校の恩師の吉岡先生の仏壇に挨拶をしてきた。
JRと京阪電車の宇治駅かJRか近鉄の新田辺駅まで送ろうと、甥は言ってくれたけれど、時間はたっぷりあるので、ゆっくりゆっくりこの田舎を楽しみたいと断った。一人でぶらぶら歩きたかった。
左・田原川 右は高尾〈こうの〉への道からの眺め
宇治田原町高尾地区 水を飲んでいるのは後輩の桝君
久しぶりに味わう故郷だ、できるだけ多くの山の気のこもった空気を吸って、できるだけ多くの山々の姿を眺めておきたかった。バス停に向かって歩いていくと、役場の裏を流れる田原川にぶつかる。橋の上から河原を眺めていると、子どもの頃の私が蘇る。春から夏にかけて、笊(ざる)や籠(かご)や網でハヤ、フナ、ドンコ、ザリガニ、ゲンゴロウを捕った。芹(せり)を摘んで帰って母に喜ばれた。魚捕りに飽きたら、石を投げて水面(みずも)を滑らせたり、潜って遊んだ。泳ぎに飽きたら河原で寝転んだ。
こんな町にもスーパーマーケットができていて、買い物客がちらほらいた。かって役場の前にあったバス停はもうそこにはなく、向かいの家で車を洗っている人に教えてもらって、新しく設けられたバス停まで、来た道を戻った。スーパーの隣は祖母、父母たちが眠る墓がある宝国寺だ。墓参りに来た時に、そこにバス停があることは気づいていたが、まさか、このバス停が宇治や新田辺に向かうバス停だと思いつかなかった。
高尾からの帰り道
宇治へはよくバスに乗ったことがあるので、その日は青谷経由の新田辺駅行きに乗ることにした。新田辺駅の駅前のロータリーには一休和尚さんの像があって、その像の前で同志社の大学生らがたむろしていた。
一休和尚
今回の最後の墓参りだ。
京都の高倉通り五条下るところにある西念寺で、妻の父のお墓参りをした。京都駅から歩いて15分ぐらいの近さだった。道に面した商店には、仏具店や骨董品、着物の反物を広げている店が多く見られた。仏具店といっても、さすが京都だ、僧侶用の着物や履物、僧侶として身にまとう小物なども多く並べられていた。やっぱり、これらの品物も売っているんだ、と認識した。
義父の眠る墓は周囲の墓石よりも一段と大きく、古く、威容だった。何代ものお骨が入っているのだろう。卒塔婆の小さいのに、私の名前とその日付を、住職さんは筆でさらさらと書いてくれた。お花を買って墓前に供えた。甥っ子の嫁が用意してくれたお線香を焚いた。
義父の葬儀の日、私は4番目の子どもを抱いて、葬儀に来た人々の群れの外で、僧侶たちの読経を聞いていた。23~25年前のことになる。ガンが原因だった。
義父はお酒が大好きな人だった。時々、好きな酒の肴を市場で買ってきた。大阪の銀行に勤めている時でも、早朝、毎日日本酒を1.5合ほど、コップになみなみと注いで、それを飲んで会社に行っていた。傍目には、一切変調や異常は見られなかった。初めて、その光景を見たときは吃驚した、銀行では、始業前に屋上で全員揃って体操をすることになっていて、義父だけが汗まみれで体操している様子が、他の行員からは不思議がられたようだ。支店長さんだけは、その由を知っていた。
体の不調を訴えだしてから、病院を転々とするのだが、ガンとは知らない義父に、どこの病院の医師も、酒が原因ではないと思いますよと言ってくれた。義母の気遣いに、医師も発言に配慮してくれた。どの医師も義父の体の状態の全てをお見通しだった。義父は、せめての気休めのつもりだったのだろうか、妻や娘には、お父さんの病気は酒を飲み過ぎたからではないらしいよ、と弱弱しく言い訳をしていた。何故か、酒は「万長」を好んで飲んでいた。
自分の生い立ちや、幼少の頃の家族のことに関しては、何も話してくれなかった。話したくなかったようだ。私のことも、突っ込んで聞いてこようとはしなかった。
晩年は、地元の商工ローン会社に勤め、その会社の上場準備室長として上場を果たし、その後は業務の拡大を重ねる繁忙の日々を過ごし、その繁忙中に亡くなった。それからの20年後の会社の果てを知らないまま亡くなったのは、彼にとって、良かったのかもしれない。商工ローンは運営において世間からこっぴどく叩かれた。