大島渚監督が撮ったドキュメンタリー「忘れられた皇軍」が、日本テレビで今月13日の深夜に放送された。それを観た。
この番組は、1963年、東京オリンピックの1年前に大島渚が監督した作品の再放送だ。1963年といえば、私は15歳、中学3年生の時のことだ。その日のテレビ番組表の別枠で、この番組の紹介を見て、どうしても観ないわけにはいかないぞ、と目覚まし時間を深夜の00時30分にして20時に寝た。が、目覚ましに起こされることなく、深夜00時過ぎに自然に目が覚めた。番組が始まる時間は00時50分。
幾ら酒を飲んで寝ても、こういうことがある日は、必ず目が覚めるのだ。
子供の頃、母に連れられて、私にとって最大の都会だった京都の四条河原町に出かけた時に、街の角角に白装束姿で、腕のない人や足が片足だけの人や、両足ともない人が、楽器を奏でたり、のぼりを掲げたり、道路にうずくまっている人たちの群れを見たことがある。違う場所では、一人で立っている人もいた。小学校の遠足で東大寺の大仏さんを観に行ったときにも、そこらじゅうで見た。その光景は異様で不気味だった。立ち竦(すく)む私の手を母は強く引っ張った。
戦争で傷ついた「傷痍軍人」だと、母に教えられた。母もそうだったが、通行人が冷ややかに、避けるように通りすがるのを子供心に気になった。私の伯父は、風土病に掛かって復員、間もなく闘病の果てに亡くなった。小学生の私にも、戦争の惨(むご)さについては、祖母から聞いて多少は理解していた。
今回の番組が取り上げたのは、日本人ではなく、旧日本軍に従軍した朝鮮人の傷痍軍人だったのだ。
監督が、このフィルムで怒っているのは、日本人と同じように戦争に召集され、日本人と同じように皇軍の一員として戦って、傷ついて復員したが、待ち受けていたのは酷い仕打ちだった。戦後、朝鮮半島は、朝鮮戦争を経て大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分かれ、在日朝鮮人の元日本兵は、外国人になってしまった。
そして、旧軍人として、当然受けられるべき手当てや医療費は打ち切られた。その救済を求めて韓国の大使館に赴き窮状を訴えても、日本の戦争による被害なんだから、日本政府の責任であって、韓国政府はくみすることはできない、と拒否された。
この不条理にオ・オ・シ・マは怒った。
医療費や生活費に困窮する彼らは、街に出て、物乞いするしかなかった。それから半世紀、彼らが必死で訴えたことは、未だに梨の礫(つぶて)のようだ。
番組の終わりに、監督は「日本人よ、わたしたちは、これでいいのだろうか」と、日本政府と日本国民に向って訴えた。
追記
約35年前のこと、安DOさんという住宅建築の発注者と請負会社の代表者としての私は、工事が終わってからも付き合いは続いた。安DOさんは在日韓国人、生い立ちを恨み、それでも真面目な勤労学生になって、日本軍の志願兵になることを夢見ている間に終戦を迎えた。付き合いが始まった頃、戦争が終わって随分経つというのに、それでも、在日韓国人として生きていくことのやるせなさに、日々悩んでいた。酒を浴びるように飲んでいた。彼は、日本人以上に、もっと忠実な日本人になろうとした、、、、が、なれなかった。
そんな彼が、夜な夜な酩酊の果てに電話を掛けてきた。ヤマオカ、俺は一体、どっち側の人間なんだ、お前が建てた俺の家には、どこの国の旗を揚げればいいのか、教えてくれ。朝鮮ピーの旗か、日の丸か! それは悲痛な叫びだった。
安DOさん、そんなときは国連の旗でも揚げとけばいいんだよ、と慰めたけれど何の慰めにもなっていなかった。最後に電話を受けたのは、肝硬変で急死する前々日だった。
20140126 日経新聞・朝刊
春秋
そのドキュメンタリーは怒りに満ちている。1年前に亡くなった映画監督の大島渚さんが1963年に撮り、日本テレビで放映された「忘れられた皇軍」だ。ずっと再放送の機会に恵まれてこなかった作品が先ごろ、監督の1周忌に合わせて半世紀ぶりに電波にのった。
旧日本軍の兵士として戦い、手足を、両目を失いながら、どこからも補償を受けられずに戦後を生きる在日韓国人たちーーーー。31歳だった監督は渾身の力を込めてその不条理をフィルムに焼きつけた。仲間同士の貧しい飲み会。軍歌と手拍子。そして眼窩(がんか)からあふれる涙。カメラはクローズアップでそれをとらえて離さない。
松竹ヌーベルバーグの旗手として邦画界を揺さぶった監督は、60年安保闘争を描いた「日本の夜と霧」の上映中止騒動を機に独立してイバラの道を歩む。送り出す作品はことごとく問題作と呼ばれ、そこには怒りと悲しみが横溢(おういつ)した。「忘れられた皇軍」はわずか28分。その短い映像がこの人の精魂をあらためて物語る。
「日本人よ、わたしたちは、これでいいのだろうか」。作品は戦後18年の平和な街の表情を追い、こう訴えて終わる。あまりにもストレートな問いかけに、当時も戸惑った視聴者が少なくなかったろう。反発もあったろう。それを百も承知で、こういう力技(ちからわざ)を果たした表現者がいた。怒りというものの凄(すご)みを知るのである。