20191001(火)、9:00から横浜シネマ/ジャック&ベティで観てきた。
偶然、27日の朝日新聞の夕刊を見ていて、私が好む映画館のスケジュール欄でこの映画を知った。
供給管理会社は東京テアトル株式会社。
この会社が何らかの役割を果たしていると思えば、この映画に急に興味を持ち出した。
20190927の朝日新聞・夕刊から(★)部分を転載させていただいた。
★
芸術への献身が断絶溶かす
パリ北駅、バッハの調べ。
演奏するのは革ジャンの青年マチューだ。
荒れた団地育ちの彼は、仲間と強盗に手を染め警察に追われる身の上。
かって近所の老紳士にピアノの手ほどきを受けたが、今は駅に置かれた公共のピアノで慰みの演奏をする。
通りかかるのは音楽院ディレクターのピエール。
不意打ちの旋律に胸打たれ、ただ立ち尽くす。
ピエールはマチューを強引に音楽院に引き入れ、国際コンクール出場を後押しする。
課題曲はラフマニノフのピアノ協奏曲。
楽譜も読めぬ不良少年の無謀な挑戦だ。
しかし、問題は技術の習得より、未来を切り拓く勇気を持てるか否か。
夢見ることを禁じられてきた人間には、それが難しい。
複雑で抒情的な旋律は苦悩や怒り、葛藤と絡み合い、やがて陶酔の境地へと誘う。
格差社会とは持たざる者に夢を挫(くじ)けさせるシステムでもある。
だが芸術は断続を溶かす力を持つ。
エリート教師も不良少年も、結局は音楽なしで生きられぬ似たもの同士。
違いを強調し対立を煽(あお)る不穏な時代、共感と感動で人を繋(つな)ぐ芸術こそ社会に必要不可欠だろう。
反逆性とナイーブさが同居する青年に扮するのは名優ジャン=ルイ・トランティニャンの実孫ジュール・ベンシェトリ。
監督は英仏双方で活躍する職人肌の仏人ルドヴィク・バーナード。
曖昧さと革新性が魅力の仏映画を期待すると肩透かしを食らうが、ドラマティックな照れがない手堅い人間ドラマに身を任せれば実に心地よい。
炭鉱町の少年がダンサーを目指す英国映画「リトル・ダンサー」の影響下にある本作は、芸術に献身することの崇高さを思い出させる。
(林瑞絵・映画ジャーナリスト)
マチューの楽しみは、自分を追う警察官の目を盗んで、そのピアノを弾くことだった。
そこへ通りかかった音楽学校のディレクター、ピエールはマチューの才能に強く惹かれ、ピアニストとして育て上げたいと声を掛ける。
乗り気ではないマチューだったが、実刑を免れるため無償奉仕を命じられた音楽院で、ピエールや厳しいピアノ教師エリザベスの手ほどきを受けることになる。
生い立ちに恵まれず夢など持たずに生きてきたマチューは、周囲との格差や環境の壁に直面しながらも、本気で音楽と向き合うようになっていく。
ピエールは所属する音楽学校のディレクターとして、マチューに国際コンクール出場を進めた。
上司には上司ご自慢の学生がいたが、どんなことがあってもマチューを出すと意気込んだ。
ピエールは音楽学校における自分自身の教師としての資格までマチューに賭けた。
マチューが出場して、悲しい結果になれば、自分はこの学校を去るという。
ピエールは音楽学校における自分自身の教師としての資格までマチューに賭けた。
マチューが出場して、悲しい結果になれば、自分はこの学校を去るという。
ピアノの全てを教えた女性の教師・エリザベスとピエール、マチューの3人はコンクールの日までの暫らくの日時をピアノに嵌(は)まり込んでしまった。
3人は一房の蓮に、共同運命的に乗っかったのだ。
3人は一房の蓮に、共同運命的に乗っかったのだ。
その音楽学校で、弦楽器を弾く女学生と愛に陥る。
彼女は直(ひた)向きなマチューを陰で表で支える。
マチューは母にもコンクールのことは話さなかったが、最後の最後の段階になって話すことになる。
コンクール開催の当日、今まで一所懸命に練習をやってきたけれど、やはり、こんな状態ではコンクールに出場することはできないと、一時は断念すると腹を決めた。
でも、コンクールの開始時間が確実に迫りきってきた、その数時間前に弟が走り回るオートバイと接触して病院に入院、手術をすることになった。
母とマチューは病院にて、弟の状態を案じた。
しばらく経って、マチューはコンクールに出場することを決意した。
仲間たちの車に乗せてもらい急いだが、道路は車両が異常に混んで進めなくなり、車から降りて人ごみの中を猪突猛進、走って会場に向かった。
会場のピアノ前の椅子に座ったが、心の弾みの静まるのを待った。
そして、演奏が始まった。