2012年9月5日水曜日

アームストロング船長 追悼

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1969年、アメリカの宇宙船アポロ11号で、人類が初めて月面に降り立ったのは、私が大学2年生の時だった。

直ぐに、特集を組んだ週刊誌やグラフ雑誌が発売され、私は朝日グラフを買った。朝日グラフって今でもあるのかな。立ち読みのままではすまされなくて、食生活を脅かす思いも寄らぬ出費になってしまった。この類のグラフ雑誌を買ったのは生まれて初めてのことだった。

寮の万年布団に寝そべって、何度も眺め入った。先輩がその雑誌を持ち去り、人から人に回し読みされ、ボロボロになって手元に戻ってきた。それを、今回、本のダンボール箱の中を探しても見つからない。何処かで失くしたようだ。

8月25日、元自転車ロードレース選手のランス・アームストロング氏が、ドーピングで、ツールドフランス7連覇を含む全タイトルを剥奪、自転車競技から永久追放されたという新聞記事を読んで、何だよ、自転車競技界は。ドーピングまみれじゃないかと倦(う)んだりしていた。

腕っ節の強そうなその名前をよくも汚したもんだワと思っていた。

 

そして数日後には、今度はホンモノの腕っ節の強かったニール・アームストロング船長さんの話だ。

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アームストロング氏のポートレート=1969年7月

 

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朝日・天声人語

「静かの海」と聞けば、天文小僧だった12歳の夏に引き戻され、胸が熱くなる。月に浮かぶ「餅つきウサギ」の顔あたり、1969(昭和44)年、ここにアポロ11号が着陸した。人類初の一歩は日本時間の7月21日、月曜日の正午前だった。

左の靴底でそれを刻んだニール・アームストロング船長が、82歳で亡くなった。名言「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」は、月面に着陸してから考えたそうだ。

10分後、着陸船のバズ・オルドリン操縦士が続く。眼前に広がる景色を眺め、、両者が交わした言葉もいい。「これ、すごいだろう」「壮大にして荒涼の極みだね」。人類初の月上会話である。

残るマイケル・コリンズ飛行士は指令船から見守り、はるか地球には米航空宇宙局(NASA)のスタッフたち。幾多の脇役と裏方に支えられ、「人類」を背負う重圧はいかばかりか。着陸時、船長の脈拍は156を数えたという。

以後、17号までのアポロ計画で、事故で引き返した13号以外の6回が成功。計12人が月面を踏んだ。しかし一番は永遠に一番だ。栄光を一人占めしたという罪悪感もあってか、物静かな船長は英雄視を嫌い、華やかな席や政界への誘いを拒み続けた。

静かな海の足跡は、人類史に刻まれただけではない。少年少女を宇宙へといざない、たくさんの後輩を育てることになる。東西冷戦、ソ連との競争の産物ではあるが、ここまで世界を沸かせ、夢を見させた一歩を知らない。

 月面を歩く

20120828

日経・春秋

「スペースシャトルの原寸大モデルをアメリカから運んできて、首都の中心に展示する国民は世界中探しても日本以外にない」。米国のジャーナリスト、ボブ・ウォードさんは「宇宙はジョークでいっぱい」(野田昌宏訳)で日本人への宇宙への愛着を、こう評している。

探査機はやぶさが小惑星イトカワから帰還した際の熱烈歓迎ぶりを思い返しても、確かにうなずける。この原点はやはり、1969年にあるのだろう。米国の宇宙船アポロ11号が送ってくる映像を日本中が 見守った。荒涼とした月面をスローモーションのようにふわふわ歩く宇宙飛行士と、闇に浮かぶ青い地球の神々しさ。

日本は高度成長期のまっただ中にあった。訃報が伝えられた船長のニール・アームストロングさんはまさに開拓精神を体現するアメリカンヒーローだった。同時に、無限の科学の発展を信じる日本人の英雄であったのかもしれない。日本政府は外国人に対して初めての文化勲章贈り、来日した際にはパレードで歓迎した。

日本人宇宙飛行士の野口聡一さんは、ツイッターで「月面初着陸のアームストロング氏、静かの海に還る」として、月を見ようと呼びかけた。「静かの海」は元船長が着陸した月面の平原の名だ。寝苦しい暑さが続く夜、しばし窓を開いて月を眺めながら、私たちに壮大な宇宙のロマンを見せてくれた恩人をしのびたい。