2012年9月12日水曜日

堀江謙一と、石原知事と本多勝一

 

サンフランシスコに到着した「マーメイド号」

 

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堀江謙一

 

8月12日の朝日・天声人語は、堀江謙一さんが1962年22歳の時、小型ヨット「マーメイド号」(長さ5、8メートル幅2メートル)で、太平洋を単独横断してから50年が経つことを記念した内容だった。

堀江さんは1938年生まれだから、私よりもちょうど10歳年長の73歳だ。

当時ヨットによる出国が認められず、西宮港を深夜、二人の友人に見送られ、密出国の形で出航した。法に堅くるっしい日本では非難の砲火を受けたが、到着した米サンフランシスコでは、市長が「コロンブスもパスポートは省略した」「コロンブスが強制送還されていたら、今日のアメリカは存在しなかったではないか」とパスポートを持たない堀江氏を、責めるどころか名誉市民としてその快挙を褒め称えた。

市長の陰には元米大統領のアイゼンハワーがいた。元大統領は、アンポ、ハンタイのデモが荒れ狂う日本に、訪日もままならぬ屈辱を噛みしめながら、日本の若者のために、と市長に助言した。

こんなことを思い出しながら天声人語を読んでいたら、どうしてもある人物の顔がチラチラする。この人物こそ、今、何かにつけて話題の東京都知事の石原慎太郎氏のことだ。

堀江さんが1974年に「マーメイドⅢ号」で世界で2番目に単独無寄港での世界一周航海を270日余りで成功させたことに、余計なイチャモンをつける男・石原氏が登場した。結果、この男は赤恥をさらした。「週刊プレイボーイ」(1975年の11月25日号)で、こともあろうに、堀江さんの偉業を可能性があり得ないものとして非難したのだ。

本多 勝一 | アルバム      石原慎太郎

本多勝一            石原慎太郎

石原発言は次のようなものだった。「堀江クンの世界一周は、ヨット仲間の常識からいってウソなんだ。絶対やっていないよ。あのときつかったヨットではあんな短期間に世界一周ができるはずはないんだ。彼のほかにも、イギリスのロビン・ノックスが312日間、チャイ・ブロイスーーーーーー」。

さらに、石原氏は堀江さんが世界一周を終えて日本に寄港寸前に、朝日新聞社のヘリコプターがヨットの堀江氏から航海日誌を吊り上げたことを、これは検疫法違反だとイチャモンをつけた。些少なことに口出して、目立ちたがる。

石原氏は当時衆院議員で渡辺美智雄や中川一郎、浜田幸一らと「青嵐会」を結成。血を滾(たぎ)らせ、金権政治を批判、憲法改正を謳っていた。

これらの石原発言に噛み付いたのが、当時、朝日新聞・編集委員だった本多勝一氏だ。徹頭徹尾、堀江氏を擁護した。本多勝一氏の少し過ぎた評論(こんな書き方をしたら、氏から叱られそうだが)を全て洩れなく読んでいた時期だったので、此の件はよく憶えている。

堀江氏に対しては1発目の太平洋単独横断では、旅券法違反だと批判轟々。そして2発目の世界一周単独無寄港では一度目は出航して間もなくマストが折れ、マスコミは中傷非難した。そして再度のチャレンジで成功しても、石原氏は恰も、堀江氏がウソをついたかのようにイチャモンをつけた。

堀江氏のような日本的価値観では理解を絶する冒険に対して、日本は、日本のマスコミは非難や攻撃を加える習性があるらしい。太平洋単独横断にさいしての日本のマスコミの非難、批判の激しさと馬鹿馬鹿しさは、石原的日本人の本質にかかわると、本多氏は取り上げた。

石原氏はよく冒険のことを口にはするが、真の意味での「冒険」を理解できないようだった。その後は、このような馬鹿なことは言ってないと思われるが、自分の発言についてのコメントを聞いてみたい。

石原氏が取り上げた検疫法違反についても、無寄港というのは日本を出て日本に帰ってきただけなので、検疫法には抵触しない、と。

両氏には失礼だが、私には痛快!面白かった!。本多氏が完璧に石原氏をやっつけた一幕でした。

 

20120812

朝日・天声人語

大志を抱け、というわりには「青年の向こう見ず」に世間は寛大ではない。堀江謙一さんがヨットで太平洋単独横断を成したときもそうだった。日本では快挙を讃えるより、無謀だの密航だのと難じる声が目立った。いつの時代も、出る杭は打たれる。

正規の出国に手を尽くしたが、冒険航海にパスポートは出なかった。やむなく夜の港からこっそり出航する。94日の航海ののち、米サンフランシスコに到着して、きょうで50年になる。

米国では密航扱いどころか大歓迎された。つられるように国内の空気も変わる。一躍時の人になったのは戦後昭和史の伝説だ。冒険や探検を大学などの権威筋が牛耳っていた時代、それとは無縁な一青年の「大志」は新しい挑戦となって羽ばたいた。

『太平洋一人ぼっち』を読み直すと、ミッドウエーあたりの記述が印象深い。「夕陽がからだをいっぱいに包む。長い黙祷を捧げました。---多くの海の先輩たちが散っていったところなのだ。---ぼくはいま花束を持っていない。許してください」。戦争の記憶はまだ色濃かった。

振り返るとその年には、国産旅客機YS11が初飛行し、世界最大のタンカー日章丸進水している。高度成長の矛盾を抱えながらも青年期の勢いがこの国にあった。

73歳になった堀江さんは、4年前にもハワイー日本を単独で航海した。なお現役の冒険家は、特別なことはせずに記念日を過ごすそうだ。青年の気を忘れぬ人である。懐旧に浸るのはまだ早いらしい。*