威勢がよく、行け行けドンドンの「日本維新の会」、いまいちよく分からない。
党内がごじゃごじゃで綱領をもたない未成熟な民主党、この党こそ選挙互助会だったのではないのか。
政権を明け渡してから、どれだけ政策の練り直しができているのか、不安だらけの自民党。
風が止んで帆が張れない、難破寸前のみんなの党。
政治生命が絶たれた小沢一郎の国民よりも自分が第一?とか。日本の政治の世界はしっちゃかめっちゃか、悪夢を見ているようだ。
それに、真面目な公明党、未だに共産を冠名にして憚(はばか)らない共産党。
昨日、長い付き合いの友人・和民さんと、つけ麺を食ってコーヒー飲んで、日向ぼっこをしながら、今の政界、経済界、日本の歴史について話し合った。彼との無駄話はいつも楽しい。
現在の日本の政治について、政党や国会運営、(議会制)民主主義について「歴史」が重要やなあと二人は合点した。民主主義が発達すれば発達するほど、民意のオサメドコロは難しい。
「決められない政治」などと安易に言う前に、民主主義とは何かという根源的な問いに、ルソーは社会契約論の中で現代の課題に示唆しているという内容の記事を昨日の日経新聞・文化欄で見つけた。その記事の都合のいいとこだけ抜粋させてもらった。
ルソーは人間の基本的な権利を守るために個人が国家と取り決めを交わす「社会契約」の考え方を説いた思想家の一人だ。その際、社会全体の利益を目指す人々の総意を「一般意志」という概念で説明したことはよく知られている。「社会契約論」には「国家のさまざまな力を指導できるのは、一般意志だけだ」(中山元訳)とある。
「社会契約で合意した個人は(契約に)縛られる。一般意志を守るためには、自分が正しいと考えることが必ずしも実現しなくても仕方ない」(金沢大学仲正昌樹教授)。公共性のために人々の自由をどこまで制限できるかというのは現代的な課題だ。
「例えば脱原発が一般意志ならば、電力消費を抑えるために不便な生活に耐える義務が生じることをどう考えるのか。公共と個人の利益が相反する問題に向き合うときにルソーの思想は考えるポイントを示してくれる」と仲正氏は言う。
政治家が育っていないことに、先ずは不安をもつ。
そんな話をした後の、本日20120923の朝日新聞の社説だ。
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20120923
朝日・社説
いいのか政党の乗り換え
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政党とはなんだろう。そう考えさせられるようなことが、また起きている。
民主、自民の2大政党の党首選のさなか、両党の比例区選出の衆議院2人がそれぞれ離党し、新党「日本維新の会」に合流する意向を示した。
これで、維新の会に参加する見通しの国会議員は民主、自民、みんなの3党の9人になった。このうち、6人が衆院と参院の比例区選出だ。
参院比例区では候補者名の投票もできるが、基本的に政党への投票だ。そこで当選した国会議員が、ほかの党に移ることが許されるのか。
そう思う人も多いだろう。この疑問には維新の会を率いる橋下徹大阪市長がネット上でこう答えている。
「日本維新の会は新党なので、政党間移動にはあたりません。比例議員が新党をつくるのは許されています」
その通りである。00年の国会法改正で、比例区選出の議員が別の党に移ることが禁じられた。一方、その議員が当選した選挙の時にはなかった政党への移動は許されている。
ただ、いくらルール違反ではないといっても、みずから一票を入れた政党を踏みにじるような国会議員のふるまいに、釈然としない有権者も多いのではないか。
新たに維新に合流するという民主党議員は、野田首相の社会保障と税の一体改革の進め方を「評価できない」と語る。
維新の会が掲げる「八策」には共感できる、23日に予定されている維新の会の公開討論会で意見をぶつけてみたいという。
だが、どう言葉を連ねても、結局は近づく選挙を前に、人気の高い維新の会という看板に飛びつこうとしている。そう見られてもしかたあるまい。
それは、選挙区選出の議員にしても、同じことだ。
維新の会に対し、既成政党からは「選挙互助会だ」という批判が出ている。
もっとも、民主党をふくめ離合集散を繰り返してきた日本の政党史を振り返ると、多くの新党にそうした側面があったことは否めない。
党員を集め、綱領や政策を練り、政治家を育てていく。政党がこうした地道な努力を怠ってきたから、議員は党首に「選挙の顔」の役割ばかりを求めたがる。所属する政党が劣勢と見るや、さっさと新しい政党に乗り換えていく。
こんなことでは、政党はますます弱り、政治が細っていくばかりだ。