2013年3月22日金曜日

友の死 胸に刻んだ「球聖」

Bobby Charlton.jpg

ボビー・チャールトン

 

20130317の日経新聞/詩歌・教養に、後藤正治氏が、「ミュンヘンの悲劇」とマンチェスター・ユナイテッド(MU)、それにボビー・チャールトンを取り上げた小文が掲載されていた。

私も、かって興味をもった内容だったので楽しく読んだ。その文章は後の方で、全文転載させてもらった。

「ミュンヘンの悲劇」とは、1958年2月6日、西ドイツのミュンヘンのリーム空港で、乗員・乗客44名のうち23名が死亡した事故のことだ。事故を起こした飛行機は、MUのチャーター機で、主力選手が多数死亡した。ヨーロッパのクラブ選手権に、イギリス代表として初めて参加しての帰途、事故に遭った。当時、ヨーロッパでは厳しい寒波に襲われて、離陸するのに滑走路が凍てついて、離陸に必要な速度が得られないまま、周辺建物に直撃、大破した。

その10年後の1968年、MUは私が大学に入った年にヨーロッパクラブ選手権で優勝した。今回の後藤正治氏の文章はその辺りのお話だ。この優勝した夜、決勝ゴールを蹴りこんだボビー・チャールトンは大観衆の前で号泣した。でも祝勝会には出ずに、独り自室にこもり涙に暮れた。妻に「関係のないメデイアの連中と馬鹿騒ぎをするのには耐えられないんだ。この勝利は、僕たち(ミュンヘンの悲劇に遭った人たち)全員を含む物だ、と。

事故からこの優勝までのことを映画化され、昨年公開された。この時のチームの主将はボビー・チャールトンで若きジョージ・ベストがいた。校長先生と生徒が入り混じって試合をしている、そんな感じを受けた。当時、サッカー部の寮で、東京12チャンネルのテレビ番組「三菱ダイアモンドサッカー」に釘づけだった。

私は1990年のFIFAイタリアW杯のスタジアムで、ボビー・チャールトンのプレーを見た。エキジビションのゲームでペレーもベッケンバウアーもいた。確か準決勝戦の前だったように記憶する。かっての名選手たちが短い時間、和やかな試合を見せてくれたのだ。ボビー・チャールトンの禿げちゃびん?頭が光っていた。お腹がぽっこりふくらんでいて、愛嬌のある体型だった。存在が際立っていた。

本題とは少し外れるが、日本代表の若きエースの香川真司が、現在MUで大活躍中だ。今月の2日、イングランド・プレミアリーグのノリッジ戦においてハットトリックを達成した。日本選手では初めてだ。

 o0426061012155318379.jpg  481566_c450.jpg

香川真司

 

これからは、後藤正治氏の文章だ。

 

友の死 胸に刻んだ「球聖」

あの日を思わなかった日は一日もない

「MAT 50-50」ーーー1958年2月7日付「マンチェスター・イブニング・ニュース」の大見出しである。サッカークラブ、マンチェスター・ユナイテッド(MU)を率いる名将マット・バズビーの生死が五分五分というのだ。見出しの下には、墜落した双発プロペラ機の破壊された機体写真が載っている。「ミュンヘンの悲劇」を伝える第一報であった。

悲報はユーゴでの試合を終えた帰路、給油に立ち寄ったミュンヘンの空港で起きた。チームがチャーターした飛行機で、乗客乗員23人が亡くなり、うち選手が8人。エースのダンカン・エドワードは十五日後、力尽きた。病院のベッドでエドワードが発した最後のうわ言が残っている。「ジム、土曜日のウルブズ戦のキックオフは何時だっけ?遅れるわけにはいかないんだーーー」。当時、ボビー・チャールトンが一番尊敬していた選手だった。(山岡記入)

バズビーは命を取り留めたが生き残ったものも全員が重軽傷を負った。この日、ボビー・チャールトンは二十歳。機内の中ほど、背中を進行方向に向けて座っていた。それが生死を分けた。機体から百ヤードも離れた場所で、安全ベルトを締めたまま吹っ飛ばされていた。「あの日から随分と歳月を経たけれども、あの日を思わなかった日は一日もない。かけがえのない友人と同僚を失った。われわれはマンチェスターの希望の星だった。いまなお完全には心の整理がついておりません」

チャールトンとはMUの本拠地、オールド・トラフォードのオフィスで会った。頭部がつるりと禿げ上がった初老の人物。グレーのスーツ姿。口調、内容、物腰。申し分ない英国紳士であった。

1960年代、ファンを魅了したロングシュートの異名は「キャノン(大砲)シュート」。イングランド代表キャップ数百六、通算ゴール数四十九は歴代一位。「球聖」とも呼ばれる。旅行会社を営み、MUのフロント・ディレクターもつとめた。「サッカー大使」として世界各地を訪れ、英王室よりサーの称号も受けている。

世界一美しいといわれるサッカー場を案内してくれた。フィールドは艶やかで広々とした緑が広がっている。靴裏からふかふかした芝の感触が伝わってくる。週末、収容人員七万六千人のスタジアムは満員となる。「昔は冬場になると芝はグラウンドの片隅しかなかった。シューズも粗末でひどく重かった。裂傷を負っても自分で消毒をして縫うだけ。万事、素朴で慎ましやかなものだったね」

1990年代、プレミアリーグが発足し、テレビマネーに支えられたサッカービジネス時代が到来した。法外な移籍金。クラブチームが投資の対象ともなる。往時には考えられない事態が起きている。「いまなら私も現役引退後の心配はしなくてもよかったでしょう。でも別段うらやましいとは思わない。私はただ好きだからサッカーをやっていた。サッカーはロマンだった。いまの選手たちはお金持ちにはなっても、果たして私のような思い出をもっているのかどうかーー」

すべからく何かを一方的に得ることはない。いまサッカー界は多くを得、また失いつつあるのではないか。ふとそう思う。

                               ☆

一番の思い出のゲームは?と訊(き)いた。予期したのは1966年のワールドカップ。イングランドが決勝で西ドイツを破り、初の栄冠を得た。「球聖」対「皇帝」ベッケンバウアーの死闘は語り草となっている。

けれどもチャールトンが挙げたのは、この二年後、欧州チャンピオンカップの決勝戦、MUがベンフィカ・リスボンと戦った試合だった。監督は復帰したバズビー。試合は延長に入り、最後、主将チャールトンがキャノンシュートを決めた。大観衆の前でチャールトンは号泣したと伝えられている。

ーーあの日のことを?

「そう、あの日のことをーーー十年前のあの日のことを完璧に思い出していた。ダンカン・エドワードはじめ死んでいったチームメイト一人ひとりのことを思い出していたんだーーー」

そういって、声を詰まらせた。ボビー・チャールトンを、マンチェスター・ユナテッドというクラブを特別な存在としているのは、このような痛切な思い出を人々とともに共有しているからなのだろう。

(後藤正治・ノンフィクション作家)