2011年2月11日金曜日

アゴタ・クリストフ/道路

20110211、ブレヒトの芝居小屋でお芝居を観てきた。

 

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この劇団と私は、40年以上のお付き合いになる。学生時代、芝居小屋の隣町の東伏見に住んでいて、テレビドラマの脚本家の牛さんにこの劇団に連れて行かれたのが、お付き合いの始まりだった。

お芝居の内容については、後記に委ねる。劇団代表の入江洋佑さんとその息子さん・龍太と私の写真を撮ってもらったのでここに、貼り付けた。洋佑さんと息子・龍太の顔を広く昔の友人達に紹介したくて、私が無理無理に企画したものです。実は、入江親子のその後の顔を見たいという、私の友人からの要請でもあったのです。

息子と親父がそっくり、と言うことは世間にままあることだけれど、じっくり、この写真をお楽しみください。公開することを快諾していただきました。カメラマンは、この芝居小屋によく付き合ってくれる仕事上の友達だ。この友人は戯曲を読むのが楽しいと言い、昔は戯曲しか読まなかったと言う。私には戯曲を読みこなすだけの能力がない。

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20110211 19:00~

『道路』

原作/アゴタ・クリストフ

訳/堀 茂樹  演出/三由寛子(育成対象者)

主催/(社)日本劇団協議会  制作/東京演劇アンサンブル

平成22年度文化庁芸術団体人材育成支援事業「次世代を担う演劇人育成公演」

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私にとって、アゴタ・クリストフさんは、今回初めて遭遇した作家だ。昨今、私が気にかけている運命的な「めぐりあい」になった。やはり年齢のせいか、この年になって、知り合いになったり、初めて知る事物や事象には、どうも運命的なものがあるように思えてならないのです。 

それにしても、今日、日本は全国的に意味のよく理解できない「建国記念日」だ。未だに私にはピーンとこない。祭日としての盛り上がりもない。馬鹿な右翼だけが、車を連ねて、意味もなく拡声器で我鳴りたてている。何を言っているのか、サッパリ解らない。日本書紀に神武天皇が即位したとされるのが紀元前660年2月11日、かっての紀元節だ。また、大日本帝国憲法が発布されたのも1889年のこの日だ。よく解らないのと、どうでもいい、この二つの記念日と理解していいのだろうか。

この日本の「建国記念日」に、アゴタ・クリストフの「道路」の芝居を観ることは、私にとって新しいもう一つの記念日になった。

「道路」は道路を、今まで通りではなく、豊かな未来を夢見ることではなく、過去を清算するものとして、お芝居にした。その主張は現在の日本では反権力だと言われることになるのだろう。そして、今日、私にとっては反建国記念日になってしまった。コンクリートから人へという民主党のスローガンは政権奪取一年目で兜(かぶと)を脱いだ。

アゴタ・クリストフは、21歳の時にハンガリー動乱から逃れるために夫と共に、スイスに亡命した。そこで習得したフランス語で小説を書き始めた。成人してから習得したフランス語なので、デビュー作の「悪童日記」はそのぎこちない文章がかえって、独特の作風に仕上がり、好評を博した。文体は、叙情的な記述を徹底的に排除して、事実を客観的に表現している、とアマゾンの作品紹介で知った。この「悪童日記」は、後日必ず近いうちに読む。

でも、今日の芝居は「道路」だ。

芝居の良し悪しを評することは、私にはできません。そんな能力を培ってはいない。でも、劇団の幹部連中も、考える余地は大いにありそうな表情をしていた。お芝居の原点をもう一度確認することではないだろうか。芝居の要素は、そういっぱいあるわけではない、限られた少ない要素で、意図して物語を作る。その中に、強いメッセージを込める。この芝居に付き合ってくれた友人は、ちょっと退屈そうだった。

ハンガリー出身のフランス語作家、アゴタ・クリストフに挑んだ東京演劇アンサンブルの若手たちのやる気に喝采。 私にはできることは、それまでだ。若手演劇人の今後の活躍に期待しよう。

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(あらすじ  パンフレットより)

ある「未来」の一時代。

地球はすっかりコンクリートに覆われている。

そこにあるのは道路ばかり。ほかには何もない。

人びとは道路で生まれ、道路で生きる。

彼らは徒歩で、車のために建設された道路を通行する。

自動車は遥か昔に機能しなくなり、残骸と化し、打ち捨てられ、「休憩所」と呼ばれている。

人類は原初的な状態に戻ってしまい、われわれの文明のことは、「伝説」を通じてしか知られていないーーーー。

その不思議な世界へ、高速道路設計者である「三つ揃えの男」が迷い込んでくる。

彼は道路で、様様な人物と出会う。

昨夜、市長のレセプションで出会ったはずの女歌手と庭師。

なぜ高速道路を歩いているのか。

出口はどこなのかと三つ揃いがたずねるが、ちんぷんかんぷんの答えしか返ってこない。

さらに、太陽、星星がかって頭上にあったのだという伝説を信じる「暗い女」。

それを否定する「明るい女」

赤ん坊のふりをした少年。

本を読めば宇宙の秘密がわかるといいながら『創世記』を朗読し始める「学者」。

突然道路を逆走してくる「逆行男」。

怖い、怖いと逃げ惑う人々の中に暴力的に出現する「野獣たち」----。

人びとは強制的に歩かされているのだろうか。

それならば、何者に強制されているのだろうか。

それに対する答えは示されず、登場人物たちは、前へ前へと歩き続ける。

 

「原初的な状態」とは何か。

人びとは歩きながら食べ物を探している。

食べ物とは、どうやら死んだ人間らしい。

出口がどこにあるのか、誰も知らない。

しかし、実は誰もが出口を探している。出口がどこなのか教えあうものはいない。

徹底的なコミュニケーションの喪失。言葉の喪失。

そんな悪夢の世界を歩き続けた三つ揃いの男は、

高速道路は人間のために作られた物ではない、と気づき、神に祈る。

「コンクリートの迷路から出してくれるのなら、ぼくはもう道路なんかいっさい建設しないことをお約束します!」と。

すると、奇跡が起こるーーーーー。

 

コンクリートを突き破って生えてきた一本の木。

それを見守る「狂人」は、出口はここなんだ、コンクリートを壊すのを手伝ってくれ、と叫ぶ。

「道路では、どんなことも起こらないとはいえないがね、たいていのことは起こらないし、確実なことなんて一つもないよ「。

 

アゴタ・クリストフの絶望の言葉なのか、希望の言葉なのか。

 

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全体主義の幻影

渡邊一民(わたなべ・かずたみ)

仏文学者

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東欧の文学を理解することはむずかしい。東欧諸国は第二次大戦中ナチス・ドイツの統治下におかれ、大戦終結とともにソヴェトに事実上支配され、そうしたクビキから解放されるには、ベルリンの壁の崩壊を待たなければならなかった。その間半世紀にわたって人びとに君臨したイデオロギーは、ファシズムとコミュニズムという相対するものだったとはいえ、人びとはあらゆる自由を奪われ恐怖につき動かされ、「だれもが囚人であるとともに看守である」(トドロフ)ことを強いられていたのである。そうした悲惨な状況は、たとえば、アンジェイ・ワイダの映画「カティンの森」に端的に示されている。そういう全体主義体制下にあってなお自由に語ろうとする人びとは、西欧に亡命し、あるものは異国の言葉フランス語で、あるものは祖国に残したものに累のおよぶことを恐れ難解な言語を駆使して、表現しなければならなかった。そのような亡命作家として広く知られているが、ミラン・クンデラとアゴタ・クリストフだと言っていいだろう。もっともいま述べたような理由から、たとえば1984年のクンデラの「存在の耐えられない軽さ」は、作中で史的事実と舞台を正確に現実から借りながらも、つねに作中人物を突きはなしあくまでもアイロニカルに描きだし、他方86年のクリストフの「悪童日記」は、いっさいの史的事実と場所と時間とを捨象し、子供の感覚にとらえられたことだけを忠実に記録していくのだ。

『道路』は1976年に発表された作品である。高速道路がドイツでも、ソヴェトでも、完璧な支配体制を保障するものとして、おびただしい囚人の人海作戦によって建設されたことはよく知られている。そして舞台に現出するのは、太陽が一面のスモッグに覆われて緑が失われ、方々に廃車が放置され、人びとを強制的に歩かせるだけの、出口がなく一方通行しか許されない道路ーーーそれはゴダールの映画「ウィークエンド」の幕の降りたあとの場景のようにわたしには思われた。

とはいえこの劇が、エコロジーなどほとんど人びとの関心を引かなかった1976年に、ハンガリーの亡命作家によって書かれたということを忘れてはならない。それはとりもなおさず、全体主義体制下のハンガリーでは、こうした終末観がひそかに人びとによって共有されていたということだろう。『道路』は、いってみればこの劇に感銘を受ける2011年のわたしたちの抱く危機意識を、30年以上先どりしていたのにほかならない。そしてわたしは、今日のグローバリズムの終焉ののちにわたしたちが未来に想像するものが、全体主義体制下で苦しみつづけた人々の終末観と重なりあうという事実に、慄然たる思いにとりつかれざるをえない。前世紀でおわったはずの全体主義が、かたちをかえてふたたびわたしたちのかたわらに忍び寄っているのだろうか。『道路』はさまざまな問題を投げかけずにはおかない。