2011年2月7日月曜日

八百長力士を、重箱力士という。

今更、何をやっているんだ日本相撲協会さん。

大相撲の八百長問題で揺れる日本相撲協会は6日、東京・両国国技館で臨時理事会を開き、大阪府立体育会館(大阪市浪速区)で3月13日に初日を迎える予定だった春場所の開催を中止し、八百長問題が解決するまで本場所開催を見合わせると発表した。特別調査委員会の調査で、何人かの力士は八百長を認めている。

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(春場所の中止について記者会見する放駒理事長。6日午後、両国国技館)

(竹田津敦史撮影、読売新聞)

読売新聞の一面では、「春場所中止」、「相撲史上最大の汚点」、「清瀬海も八百長認定」という題字が大きく印刷されていた。

牛さんの茶の間で、牛さんと私の2人は炬燵に入って、テレビの相撲中継を観ていたときのことです。観終わった取り組みが2人とも納得いかなかったのですが、私は語調を強めて負けた方の力士を責めた。余りにも、踏ん張ら無いままに負けたからです。あんなに簡単に負けてどうするんだ。やる気があるのか。ところが、牛さんは冷静に、ニコニコ笑って、大好きなネスカフェのインスタンコーヒーを飲んでいた。黒いラベルの普通の奴です。ゴールドブレンドなんかとは大いに格下の、当時、一番廉いインスタントコーヒーだったのです。

この牛さんに、私は大学時代に何かと強い影響をを受けた。テレビの脚本家だった牛さんはスポーツに関しては、どの競技においても、何でも知っていた。過去の名勝負、選手の出身地から学校、キャリア、それに彼には不似合いな艶(つや)っぽいゴシップまで、機会のあるごとに話してくれた。今から約40年前、1970年頃のことです。私は21歳だ。

そのとき、彼は相撲の八百長の話をしてくれたのです。山ちゃん、昔から、八百長をやる相撲取りのことを「重箱力士」と言うんだよ。八百長が必要になった時、空っぽの重箱の底にお金を入れて、風呂敷に包んで、八百長をやってくれる力士の親方にお願いに行くのが、慣例になっていたそうです。昔から、それはずうっと前から秩序としてあったのよ。テレビ局で、スポーツでも相撲を担当している人なら、みんな知っている。牛さんの発言は過激だった。牛さんは、亡くなって30年は経ってしまった。

今回の事件を知って「相撲の八百長」をネットで調べても、「重箱力士」というのは出てこなかった。牛さんから教えてもらった重箱力士というのは、そんなに普遍的な名称ではなかったのだろうか。

この問題が発覚したから言うわけではないが、相撲が何故国技なんだと、不思議に思う。相撲は国民にすっかり馴染みが薄まってしまった。プロレスやボクシングと同じレベルで興行的で、国技と謂われるほどの格式を感じなくなってしまった。この際、誰がどのように決めたのか知らないが、国技という表現はやめよう。

かって、朝青龍が大一番で勝って、ガッツポーズや両手を挙げて万歳の格好で勝利の喜びを表したことがしばしばあった。その所作は横綱としての格式がないと非難された。国技に携わる者は、なりふり構わずに喜怒哀楽を表すものではないのだ、と相撲有識者らは口を揃えて批判した。感情をぐうっと押さえ込んで、決められたしきたりに従う、それが格式なのだという。が、私はそれらの意見に納得できなかった。それに、相撲を神技とか、相撲を神の儀式にそぐわせるなんて、私には理解できない。

ガッツポーズのどこが悪いのだ。

そして税制面で優遇を受けられる公益法人からも下ろそう。

日本相撲協会そのものが、ガンなのかも。そのことも所轄官庁はチェックすべきだろう。

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人間は、転んでも何かを身につけようとする賢い動物だ。私もお陰さまで、八百長の由来まで勉強する機会を得たことに感謝。

Wikipedia(のまま)=八百屋は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)}といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。

しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れ渡り、以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。