2011年2月9日水曜日

永山則夫「無知の涙」から、多くを学んだ

弊社では、毎週水曜日が営業の定休日になっている。管理の担当者が出社しているだけなので、社内は極めて静かな一日だ。私は、と言えば午前中は会社の中で、何をするわけではない、とりあえずゴミの片づけから、周辺の整理整頓をする。場合によっては現場に出かけるか、それとも静かに本を読む。

今日は、以前に読んだ永山則夫の「無知の涙」を飛ばし飛ばし読み直した。やっぱり、かって感じたやるせない気持ちになった。

無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)

永山が1968年10月、東京プリンスホテルの敷地を巡回していたガードマンを射殺、それから、京都、北海道、名古屋と合わせて4人のガードマンやタクシードライバーを1ヶ月の間に次々と射殺した事件だ。19歳だった。恨みつらみのない、偶然行き当たった人をピストルで撃ち殺した。翌年から始まった裁判は、1990年に死刑が確定するまで、約22年間続いた。その間、獄中で書いた読書ノートが井上光晴氏が責任編集していた雑誌「辺境」に掲載された。それからです、私が興味を持ち出したのは。井上光晴氏を個人的に好感をもっていた。辺境を熱心に読んでいた。私の生活は、大学生活を終え、結婚して子供が生まれて、その子育ての過程と歩調を合わせるように裁判も進んだのです。

子育てを始めたばっかりの私には、永山の子供時代のことが関心のほぼ全てであったような気がする。永山は、人間に、母にさえぎゅっと抱きしめられたことが一度もなかった。公判のなかで明らかにされていく内容、時間の経過とともに繰りなす永山の周辺の人びとの営み、胸をキュンとさせられながら辺境を読み、裁判の経過を見据えていた。子供と親、とりわけ父と子、母と子、兄弟、身内、これらを取り巻く社会との関係をこの事件で、大いに考えさせられた。

裁判の終わりごろ、病床で伏している母を永山の代理で見舞いに向かう女性に、母にリンゴをむいてやってください、とお願いをした。永山はここにきて母を許したのでしょう。

読後、やるせない気持ちで、ブルータスのバックナンバーを何となくパラパラ捲(めく)っていたら、永山の住んでいた網走とは遠く離れたニュージーランドで、生息数がドンドン減っていくイエローアイドペンギンの写真を見つけた。

厳寒の地、網走。親に捨てられた子供たちだけで、隙間だらけの家に、乏しい食料、乏しい暖房、体をくっつけ合って暮らしていたその家と、この写真の家が勝手に私の頭の中でクロスしたのでした。ペンギンにとってこの家は、十分な憩いの場なのでしょうが、永山たちの家もこの程度の普請だったのではと思いを馳せた。外は、荒涼たる雪原。雪は古い家を覆(おお)いつぶさんばかりに降り、室内の奥まで雪が吹き込んでいたという。

午後は孫・晴を幼稚園に迎えに行って、それからは孫と一緒にサッカーをして遊ぶのです。が、今日は、プールに連れて行って欲しいと次女(晴の母親)から頼まれている。孫の水泳のレッスンが親の都合で、何日間は受けられなくて、その代替えのレッスンのためだ。

今は昼飯(ひるめし)後の休憩時間だ。2時半に幼稚園、3時半にプールだ。言われたように義務を果たさなければ、いいジジイになれない。私にとって、これが一週間の中で一番楽しい時間なのだ。

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ブルータス2006年9月15日号からこの写真を拝借しました。以下の紹介文もそのまま引用させていただきました。スマン。私はブルータスの熱烈な読者ですから、ちょっと多めにご配慮ください。

撮影されたのは、7月。南半球は真冬。その姿が残るわずかな生息地のひとつは、ここニュージーランドの南島。このペンギンさんの名はイエローアイドペンギン。現在、地球上に住むペンギンのなかで、最も数が減少している絶滅危惧種だ。