この稿は、1ヶ月前に書いたものです。それから、私の思惑とはちょっと違って、購入希望者は狙いどころからは発生しないで、外れの地域にお住まいのお客さんに買っていただくことになった。それにしても、嬉しい誤算だ。
この稿は、弊社ではこのような仕事もしているんだという、業務紹介ですぞ。
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弊社では、週末の土、日には、必ず中古住宅の現地販売会を、2、3ヵ所で行なっている。
その販売会の告知のために、社員は手分けして周辺住宅に広告チラシを配る。チラシの投げ込みの対象は、主に賃貸住宅だ。賃貸住宅から脱出して念願のマイホームを弊社から購入していただくことが、我々の最大の目的なのだから。
私は、今までの経験上、物件にふさわしい顧客が住んで居そうな場所を嗅ぎ取る知恵を身に付けている。物件ごとに、購入予定者がどのようなヒトか、ある程度は想定できるのです。だからと言って、ずばり、当たったということは、正直少ない。
今回の物件は、藤沢市石川の中古住宅だ。この石川は、湘南ライフタウンとして40年ほど前(開始は1974年)から藤沢と茅ヶ崎の両市が開発が進めてきた大型の区画整理事業の一画だ。340、74ヘクタール、計画人口45、000人。藤沢市と茅ヶ崎に市にまたがっている。交通のアクセスがそれほどよくないので、当初、販売は遅々として進まなかったが、それでも、今では住宅が密集し始めてきた。学校、スーパーマーケット、銀行、その他生活に必要なものは、何でも揃っている。
私は、チラシ配りのメンバーの一人として、毎回、欣喜雀躍として参加する。
適度に体を動かさないと、体が鈍(なま)るのではないかと、怖いのだ。来月で63歳になる。これから20年は働ける体を維持したい。今回のこの物件を買っていただけるのは湘南ライフタウン駒寄、第一第二住宅に住んでいる人だ、と狙いを定めた。この団地は、一部に2階建てのテラスハウスもあるが、大半が5階建ての日本住宅公団特有の作りだ。各棟、2,3ヵ所の階段がある。その一つの階段には各階2戸づつあって、その階段を利用するは10所帯だ。
全部で51棟あるので、多分1、000所帯近くはあるのだろう。この公団住宅の住戸の全ての玄関ドアの郵便ポストにチラシを入れることにした。
1階の集合ポストには投げ込まない。弊社のチラシは、そんじょそこら(これって、関西弁?)のチラシとは違って、独自な内容が込められている、誰もが読み取って喜んでくれる情報なんだから、ゴミを捨てるような1階の集合ポストには絶対入れたくなかった。弊社の玉のような極上の情報を、石ころのような情報の中に混淆させちゃ、堪りませんよ。
住宅の購入を考えている人ならば、このチラシの内容に心を動かされる筈だ、と私ら社員は確信をもっている。
弊社が商品開発した物件は、緻密な市場調査に基づき、心憎いほどの繊細なリフオーム工事を施してるのですから。見ていただければ、間違いなく気に入ってもらえると確信している。客観的な事実で、決して自己満足ではない。
そこで、駒寄住宅は5階建てが多く、5階までは65段の階段を上り、下りすることになる。1段の蹴上(けあ)げを約20センチとする。この団地内の総階段数を、ざっと5、500段としたら、5、500(段)*0.2(m)=1、100(m) となる。水平移動の距離のことはさておき、この団地を一通り終えると1、100メートルの垂直移動したことになる。
昨年、富士山に登ったが、頂上が3、776メートルなので、富士山の第7合目(標高2、770)から頂上まで登ったことになる。
ここまでのことは、これから話そうとするための地ならしで、このチラシまきで面白いことが幾つもあったので、そのことの紹介が主目的なのだ。
その1
この団地の住民と思われるオジイちゃんが、団地のツツジの生垣を、尻を地面にこすり付けたまま葉や茎などを間近に凝視しては、何やら摘み取っていた。何をしているんですか? 躊躇うことなく訊ねた。彼は、よく聞いてくれましたね。私は、樹木については何でも知っているので、何でも聞いてくださいな、ときたもんだ。
所どころに、飛びぬけて枝が伸びている茎を見つけては、その茎を他のと同じ背丈に切ったり折ったりしていた。その切るか折るかする辺りに芽がある場合は、その芽を残すのです。背伸びしている奴だけが養分を吸ってしまうので、それを避けるためなのだそうだ。
植木屋さんがバリカンのようなでかいもので、一律に切り揃えるのは、そりゃ見た目には奇麗でしょうが、樹木の枝葉の細かいことには何も配慮されていないのです。あれでは、駄目なんです。
それに、表面だけを刈り揃えただけでは駄目で、中の方に隙間を確保してやらないと、虫が巣食ったり、風通しが悪いために病気になることが多いのです。その為に細い枯れ木などもとり除く。そのようにしてから、表面を刈り揃えるといいのです、これが大事なことなんですよ。
う~ん、何か他に聞きたいことは、ないの? 何でも教えて上げられます、と畳み掛けてくる、くる。
現在、私は自分の果樹園・イーハトーブ(宮沢賢治の理想郷)で、果樹の剪定に頭を悩ましているが、柿、栗、桃、スモモ、夏みかん、金柑、無花果、それらをどうしたら、いいのか、この場で聞きたかったが、聞くにも材料がない。今度、彼のような人に会う機会が生まれるかもしれないので、当方としても、何かと準備をしてこなくちゃイカンわ。
教え上手な人に、そう簡単には巡り会えるものではない。
その2
階段の途中で擦れ違った、きっと住民だと思われるオジさんに声を掛けられた。ニイさんよ、1枚幾らで配っているんだ、と聞かれた。階段の所を配るには、単価を上げてもらわなくっちゃ、たまらんわな。オジさん、これはうちの会社の仕事なんですよ。人に頼んで配ってもらうのではなく、社員が自ら配っているんです。
他人(ひと)に頼んで、金だけ取られて、どぶにでも捨てられたら、目も開けられないサカイに、自分たちの手で配っているんです。その場を離れようとしている私に向かって、オジさんから、暑いけど頑張ってよ、と励まされた。あのオジさんとおニイさんと呼ばれた私と、どちらが年長者なのだろうか、ふとそんなことを考えた。
いったい俺はいつまでこのようなことができるのだろうか。
その3
暑い。暑い日だった。今年は梅雨が明けるのが記録的に早かった。梅雨が明けたと同時に真夏に一気に変貌。太陽が怒ったように照りつけている。毎年、真夏になると急に埼玉、熊谷の名が、テレビやラジオで騒がれる。この二三日、熊谷が40度近くになった、と叫んでいる。そんな暑い日だった。
私は自分に妥協を許さない強い意志を持って、1階、2階と数えながら、各戸の郵便受けにチラシを入れていた。移動の際は、大体下を向いて歩いている。コンクリートの階段には、汗の滴りが、黒い点になって続く。
3階に辿りついて、ハッと頭を上げたら、そこは玄関ドアーが全開されていて、たたきの所で、パンツ一丁になったオジさんが、小さな椅子に座って、団扇を片手に涼んでいた。たたきの部分を独り占めするほどの巨漢だ。分厚い毛むくじゃらの胸には、大粒の汗が浮かんでいた。私が、ぎょっとした。熊のような人間を目の当たりにしたのだ。
私の驚いた仕草を見て、オジさんはそれでも、にっこり、暑いんだもの、しょうがないよなあ、余程体に堪(こた)えているようだった。節電しろと言われるし、金も無いのでどこにも行けないし、ここで涼むしかないよ。今日は、ここが一番涼しいんだ。このオジさん、それでもご苦労さんと、チラシを受け取ってくれた。いい家が近所に出たので買ってください、と言うことを忘れなかった、が反応はなかった。
彼には、この場では涼を取ることが、何よりの関心事だったのだろう。
その4
チラシを投げ込もうとしている最中に、突然玄関ドアが開いて、家から出ようとした人も私も、お互いに吃驚した。瞬間、顔が引きつった相手に、すみません、チラシを入れさせてください、と了解を求めた。彼女の顔に、鈍く緩(ゆる)みが走った。近所にいい家が出ましたので、買ってくださいというチラシなんです、と言いながら、手渡した。住民は老いたオバアちゃんだった。彼女は、私のチラシを何かご褒美でも貰う時のように、恭(うやうや)しく両手で頭を下げて受け取ってくれた。
去り行く私に、ご苦労様、有難うございました、とお辞儀で見送ってくれた。僭越です、恐縮しました、私、改めて敬老の念を深くした。
その5
私は上の方の階段から下りてきた。下の方から新聞配達のお嬢さんが上がってきた。彼女は俯(うつむ)いたまま、体を移動することに必死の様子だ。彼女が右に寄るので私は左に避けた。そのうち彼女は左に寄ってきたので私は立ち往生、避けられなくて待機、彼女の動きを確認していた。下を向いたまま気づかずに進んできた彼女は、真ん前の私の足元を見て、ハッと顔を上げて腰を抜かさんばかりに驚いた。
貴女がそんなに驚くほど、怖い人間ではないんだけどなあ。
その後、両者はニッコリ笑って、頑張りましょうとエールを交換して、次の行動に移った。
新聞配達のお嬢さんのことがあって、玄関の郵便ポストに入っている新聞の種類について気になりだした。彼女の配達の様子から想像してみたのですが、階段ごとに購読している新聞の紙名が偏っているように思われた。郵便受けの新聞に注意を払った。例えば、A階段ならば読売新聞、B階段は朝日新聞とかのように。
A階段の或る人から読売の購読の申し込みがあったら、読売の配達所からは、どうせこの階段を上り下りするならば、効率よく、もう1軒とばかりに、営業をかけた結果が、このようになったのだろう。
階段ごとの新聞社の寡占化が進んでいる。