2011年8月9日火曜日

ミスターマリノス 松田逝く

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2010年12月4日 サポーターに横浜マの退団あいさつをする松田直樹選手=日刊スポーツ

以下の文章は、20110805 朝日新聞・朝刊の記事を基に、そこに一部私なりのコメントを入れて作成した。

JFL松本山雅の松田直樹選手(34)は、急性心筋梗塞のため練習中に倒れ、心肺停止で意識不明のまま長野県松本市の信州大医学部付属病院に運ばれ、懸命の治療も虚しく、意識が戻らないまま、20110804午後、死去した。

松田選手は、2日午前の練習に数分遅刻し、ランニングに2周遅れで合流。その後、ストレッチしている時に、「やばい、やばい」と言いながら倒れこんで、そのまま意識不明になった。現場にも、救急車にもAEDがなく、心臓マッサージを繰り返し、病院に到着した。その間の救急対応に、もう少し知恵があっても良かったのではないか、と悔やまれる。

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今年7月9日の松本山雅ー佐川印刷の試合前、整列する松田選手

彼の肉声は、You-Tubeで初めて聞いた。今、テレビのないアパート暮らし、気が付いた時にはYou-Tubeのスポーツコーナーのあれこれにウツツを抜かしていることが多い。半年前のことだろう、マリノスの退団の挨拶をサポーターに向かって、何をどのように喋ればいいのだろうか、とスタジアムに向かう車中、自ら運転しながら悩む姿が映されていた。自分で撮影できないから、助手席から、誰かが撮ったものだろう。

俺、人前で何を喋ればいいんだ?何も喋れないから、有難うございましただけでいいだろう?そんなことを真剣に悩んでいる様子の動画だった。それは、まるで中学生か高校生のようなあどけない子どもっぽさだった。そして、本番。マイク片手に、マリノスのタオルを首にかけて、胸に垂らしていた。俺はマリノスが好きで、サッカーが好きなんだ、と叫んでいた。確かに、整然として喋れていなかった。溢れる感情を抑え込めない、浮かんでくる言葉をそのままサポーターにぶつけていた。

松田は、戦う男だった。純真だった。

私は学生時代フルバックやセンターバックを専門的にやっていて、技術的に高度な技術を駆使するプレーヤーではなく、守るだけ、徹底的なマンツーマンで、相手攻撃の芽を摘み取る、刈り取ることだけに専念した。無骨に働き者だった。私ができるのはこれしかなかった。潰すことさえできれば、先ずは危機から逃れられる、それが、攻撃の起点に絶対になる、と信じていた。だから、相手に対するプレーは容赦しなかった。

キングといわれた元W大監督、元全日本代表コーチを務められた工藤孝一さんが、右足の不自由な体で、私の所までやって来て、杖でグラウンドに線を引いた。ヤマオカ、この線の中では、絶対、相手を自由にさせるな。必ず、潰せ、と厳命された。私もその通りだと考えて、これこそ、チームに貢献できる全てだと思った。

そんな私にとって、松田のプレーは実に快かった。自分もこのようにプレーできていたら!ひょっとして、とアホなことを空想しながら、心を奪われた。好きなプレーヤーだった。日本サッカーの戦うディフェンスの原型を作ったのではないだろうか。

日本代表が史上初めてW杯でベスト16に進出した2002年日韓大会では、フラット3と呼ばれる3バックの不動の右サイドDF。厳しい指導でならしたトルシエ監督が「試合に出さなければただじゃおかないぞ、という迫力を感じる選手」と評していた。

当時のチームのDFには、1対1の強さに加え、攻撃の起点になる力が求められていた。中学までFWだった松田はパスセンスにも自信を持っていた。

ジーコ監督の日本代表では、また違った「戦う姿」を見せた。連覇を果たした04年アジアカップ。出場機会は準々決勝の延長後半途中からだけだったが、控えの立場からレギュラー陣をもり立てた。川渕三郎日本サッカー協会名誉会長は、この時の松田を「縁の下の力持ちとしてチームを支え、控えだったにもかかわらず懸命に練習に励んでいた。彼が練習の先頭に立ってチームを盛り上げたことが優勝につながった」と功績をたたえた。全試合に出た中村俊輔が「あの優勝は松田さんのおかげ。W杯経験者がベンチでチームに尽くす姿を見て、力を振り絞ろうと思わない選手はいなかった、と話していた。その後、日本代表からは、声がかからなくなった。

この中村俊輔は、松田が倒れて亡くなるまで、2度も足を病院に運んだ。忙しい中村が、よくもこの短い間に足繁く見舞ったものだ。松田を思う中村の心痛が偲ばれる。

W杯南ア大会の予選が佳境を迎えていた09年、「02年が最高の自分だったと勝手に勘違いしていたが、もっとうまくなれると気づいた。もう一度、W杯に出たい」と話すのを聞いた。

「丸くなった」と言ってはいたが、ぎらぎらした目は変わっていなかった。しかし、2010年は怪我をして出遅れ、16年在籍した横浜マから戦力外を告げられた。

昨季最終戦、横浜マのサポーターの大声援に涙した後、「マリノスを愛しているが、ここでサッカーを辞めるわけにはいかない。僕はサッカーが好き。もっとサッカーをしたい」と宣言。今季はJFLで最も応援が熱いと言われる松本山雅でJリーグ昇格に向けて戦っていた。もう一度咲かせる花があるはずだった。

松田の人柄のことは、松田と関わった各氏が彼を偲んで語っているコメントを聞けばよく分る。そんなコメントを新聞、その他で入手したものを下に書き揃えた。

☆横浜マ・中村俊輔=「すべてにおいて、豪快な人。厳しいことを言ってくれる兄貴分でした。」「以前、『松本山雅をJ2に上げるの?』と聞いた時、『馬鹿じやん。J1に上げるんだよ」と怒られたことがあった」

☆横浜マ・栗原=「負けず嫌いな人で『いつになってもお前には負ける気がしない」と言われた」

☆横浜FC・三浦=「『カズさんが辞めるまでは(自分も)辞めない』と彼らしい強気なことを言ってくれた。刺激にもなったし、自分も頑張ろうと思っていたので残念」

☆神戸・宮本=「同じ時代をプレーしたマツ。日韓W杯のロシア戦で勝利し、抱き合って喜んだことは忘れられない」

☆名古屋・楢崎=「いつまでも手のかかる、周りを心配させるヤツですよ」

☆名古屋・三都主=「逝って欲しくなくて、止めたくて、呼びかけたけれど届かなかった」

☆横浜マ元監督・前日本代表監督・岡田武史=「マツは2年連続でJリーグ年間王者になった時に一緒に戦った仲間。自分にとっても、とても思い入れの強い選手だった」

☆ガンバ大阪・前アトランタ五輪日本代表監督・西野朗=「規格外のインターナショナルな選手だった。(五輪代表)では一番若かったが、年代の違いを感じさせなかった」「メンタルティも強かった。(そのタフさが)高じることもあった」、そして揉めたことだろう。

アトランタ五輪代表メンバーにはオーバーエイジ枠を使わずに当時19歳の松田を選出し、全3試合をフル出場させた。マイアミの奇跡だ。西野監督は、意見の違いさえ頼もしく感じていた。

「将来は指導者としても魅力のあるサッカー人だった」

☆ガンバ大阪・明神=「ヤンチャでワガママで気分屋なところもあったけれど、僕ら下の世代には、ああいう生き方がカッコいいと映った」