2月3日は水曜日、弊社の定休日だ。
私の良き時代には、付き合ってくれる友人や知人が多くいた。 映画、演劇の鑑賞・観劇に同行してくれるパートナーは多情なのだ。
ところが、今回は独りぼっちだった。私の工事現場での事故のせいか?
他人は私に呼びつかない。
映画館は、私に馴染みの深いテアトル系。以前にはこの会社の貧弱な株主だったので、優待券をもらっていた。
事故のせいだけではなく、この杉原千畝という人の行動を、業務上知っていたから、私の頭はどうも可笑しく?変脳してしまったようだ。
環境が戦争という大きなパズルに嵌まって、常識を常識らしく考えられなくなってしまった。
ブラウン管に映る雪氷に覆われた野原、そこに、宝のように映えた花は何だったのだろうか? 当時、私には解からなかった。
真っ白な上の燻(いぶ)し銀の花こそ、私には杉原地畝さんに思えた。
彼のことが、私の脳髄に刻印されていたのだ。
深夜、布団の中で、頭に浮かぶのは彼の非常識なまでの高潔性と強靭性だ。
彼の心性に頭がひっくり返った。
私は考えたーーーー。お前だったら? お前がこんな状況に追いやられたら?どうする? この俺は、どんな行動をとることができるんだ? 身も心も引き締められ、体中に苦虫を噛み崩した。
この山岡は、そんな貧相な男なのだ!!
私は自らの弱さを隠そう、としているのだろうか。
学生時代からちょっとした左翼だった。ばりばりのお金持ちを嫌った。
只管(ひたすら)に、体を使って働く人を好んだ。そんな私の気性を、この御仁はもっと激しく狂わそうとした。
杉原千畝さんについての基礎的な情報は、身につけていた。
20年前か? その前だったか?彼の住宅を弊社のグループで買わせていただいた。
彼の身内のことは、極めて個人的な諸事情が多くて、安易に話すことは避けたい。
彼の死後、売主としての契約当事者は奥さんと息子さんだった。
二人の住まいとしては、これほどまで大きな住宅は必要ないと判断されたようだ。
家屋の中に残された書類等を観ると、他ならぬこの人には、私たちに無いモノを持たれている!! というのが、痛い程解った。
★以下の文章は、ネットからいただいたものだ。
第二次世界大戦中のリトアニアで、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人に対して、日本政府の命令に背いて日本通貨ビザを発給し、約6千人もの命を救ったとされる外交官。自らの工場で働くユダヤ人を救ったこととして知られるドイツ人実業家、オスカー・シンドラーになぞらえて、「日本のシンドラー」とも呼ばれている。
「命のビザ」のエピソードが知られるようになったのは、69年にイスラエル政府が杉原に勲章を授けてからだ。85年1月にイスラエル政府から「諸国民の正義の人」として表彰され、91年には、リトアニアの首都にある通りの一つに「スギハラ通り」と名前が付けられた。
杉原千畝 スギハラチウネ
杉原千畝 スギハラチウネ | |
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監督 | チェリン・グラック |
脚本 | 鎌田哲郎 松尾浩道 |
出演者 | 唐沢寿明 小雪 |
音楽 | 佐藤直紀 |
撮影 | Garry Waller |
編集 | Jim Munro |
製作会社 | 日本テレビ放送網 |
配給 | 東宝 |
公開 | 2015年12月5日 |
上映時間 | 139分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語、英語 |
『杉原千畝 スギハラチウネ』は、2015年制作の日本映画。第二次世界大戦中、ナチスによる迫害から逃れるユダヤ人のために独断で日本通過のヴィザを発行して、6,000人あまりのユダヤ人を救った外交官・杉原千畝の生涯を描いた作品。ポーランドで9月13日から11月上旬まで約2か月にわたりロケが行なわれた。
本作では杉原が外交官としてだけでなく、堪能な語学力を使い、赴任した各国で類まれな情報収集能力を発揮し、貴重な情報を集めて日本に送り続けた「インテリジェンス・オフィサー(諜報外交官)」であった一面も合わせて描いている[1]。
昭和30年(1955年)、日本の外務省を訪れたユダヤ人ニシェリは、自分の命を救ってくれた「センポ・スギハラ」という外交官との面会を求めるが、応対した関満一朗から「センポ・スギハラという外交官は存在しない」と返答されてしまう。ニシェリは「必ず探し出す」と言い残し外務省を後にする。
昭和9年(1934年)、満洲国外交部の一員として働く杉原千畝は、白系ロシア人のイリーナとマラットと共に、ソ連との北満鉄道譲渡交渉を有利に進めるための諜報活動を行っていた。杉原はソ連軍が新型列車を盗み出そうとした証拠を掴むが、手を組んでいた関東軍の南川欽吾の暴走によってマラットとソ連兵が殺害されてしまう。穏便な解決策を無下にされた杉原は、満洲国を私物化する関東軍に嫌気が差したため満洲国外交部に辞表を提出し、日本に帰国する。帰国後、杉原はモスクワの日本大使館への赴任を命じられる。念願の任地への赴任を喜ぶ杉原だったが、ソ連から北満鉄道の一件を理由にペルソナ・ノン・グラータを発動され、入国を拒否されてしまう。落胆した杉原は友人の菊池静男とヤケ酒を飲み菊池の家に泊まるが、そこで菊池の妹・幸子と出会い恋に落ちる。
昭和14年(1939年)、杉原は新設されたリトアニア・カウナス領事館への赴任が決定し、ソ連の動きを探るように命じられる。杉原がカウナスに赴任した直後、ソ連はナチス・ドイツと独ソ不可侵条約と締結し、ドイツはポーランド侵攻を開始した。杉原は、接触してきたポーランド人スパイのペシュと手を組み諜報活動を開始する。杉原とペシュは収集した情報を分析し、独ソが東ヨーロッパを分割支配しようとしていることを突き止めるが、日本は明確な対策を取ろうとはしなかった。
昭和15年(1940年)、ソ連軍がバルト三国を占領する。ドイツからの迫害を逃れて来たニシェリたちユダヤ人は、ドイツと同盟を結ぶソ連から逃れるため国外脱出を図るが、各国領事館はソ連軍によって次々に閉鎖され、脱出に必要なヴィザを受け取ることが出来なくなってしまう。そんな中、オランダ領事代理のヤンはニシェリたちにヴィザを発行するが、ドイツが支配する西ヨーロッパへの脱出は不可能であり、ニシェリたちは極東経由での脱出を目指し日本領事館にヴィザの発行を求めるが、外務省からペシュら協力者以外へのヴィザ発行を禁止されていた杉原はニシェリたちを無視するしかなかった。しかし、ヤンの行動や日に日にヴィザ発行を求めるユダヤ人たちが増えていくのを見た杉原は心を動かされ、独断でユダヤ人たちへのヴィザ発行を決断する。杉原は領事館が閉鎖され国外退去するまでヴィザを発行し続け、ニシェリたち多くのユダヤ人がリトアニアから脱出した。
リトアニアを退去した杉原は、東プロイセン・ケーニヒスベルクに赴任する。杉原とペシュはドイツ軍が国境地帯に集結している事実を掴み、ドイツがソ連への侵攻を計画していることを察知し、駐ドイツ大使の大島浩に「日本がアメリカと戦争になってもドイツの支援は得られない」と忠告するが、ヒトラーに心酔する大島は杉原の忠告をまともに取り合おうとはしなかった。独ソ戦開始後、ドイツはソ連への侵攻計画を漏らした杉原の国外退去を要求したため、ルーマニアへの赴任を命じられる。杉原は大島に対し、「アメリカと戦争すれば日本は負ける」と警告しルーマニアに向かう。
昭和20年(1945年)、杉原はソ連軍の捕虜収容所の中で手紙を渡され、その際に日本の敗戦を知る。子供たちと共に側にいた幸子は、杉原の心情を慮り場を離れ、落ち着いたところで手紙がイリーナからの物だと知り中身を確認する。手紙には、「杉原が発行したヴィザによって多くのユダヤ人たちが救われ、多くの人々の人生を変えた」と書かれており、最後に「ありがとう」と結ばれていた。手紙を読み終えた杉原は涙を流す。
昭和47年(1972年)、外務省を退官し貿易会社に勤務していた杉原は、任地のモスクワでニシェリとの再会を果たす。杉原とニシェリは数十年振りの再会を喜び、モスクワの街を歩いていった。