2018年2月、69歳の此の私が、気が狂ったように?
こんな恐ろしい題名「腰痛の歴史が私の一生!」で、このブログに書く気になったのだろう、か?
今から45年前のことから、それからの45年間に起こったあれこれを、何故かこの頃よく思い出す。
大学時代23歳、社会人になってから8年目32歳、52歳、69歳は今の今状態。
良くない歴史は繰り返される、と昔からよく言われたけれど。
情けない話の連鎖劇か!
頭の芯が狂ったようにギクシャクしたり、腰の筋肉が突然、訳の解らない鼓動を起こすのだ。静かに深く。その節、同じような状態で。
意識もしないのに、このような心身の症状が何故発生するのだろうか。悪神か鬼神に乗り移られたのだろうか。太宰治ではないが、デーモン!!野郎、と叫びたくなる。
2浪で大学に入った。入った学校は都の西北にある名門校だ。
他の大学、法・明・中にも合格通知はもらっていたが、入学の目的は日本一のサッカーをする大学と最初から決めていたので、他の学校には申し訳なく思う。
どうせやるなら、清い空気や澄んだ水と過ごしたい。ややこしい風味? 苦みや辛味、糞味、そんな感覚はもう味わいたくない。
さすが、入学した学校には日本全国から優秀な者が、大きな夢を持ってやってきた。
出身地は、九州から北海道まで彼方(あっち)此方(こっち)だ。
唯の貧弱な心身能力だった私のような者が、平気でノコノコと入部して来なかった。
私だけが、何だか非人間っぽく、部の誰からも変節な奴だと思われたことだろう。彼奴(あいつ)は阿呆かいナ~と思われたのかもしれない。
練習だって、止まったボールを蹴ることはできても、それ以外のボールを何とも処理できない木偶(でく)の坊だった。
走ることだって、2年間のドカタ稼業を兼ねての受験浪人だったことが、酷いことにこのことが尚更激しく運動神経を疎(うと)くさせてしまった。
4年間の授業料と入学金その他の費用を稼げることはできたが、運動選手としては、どんどん悪くなっていた。
悪貨は良貨を駆逐する、なんて結語を思い出した。
案の定、そんな私が、皆との練習ではどうしても傷物(きずもの)になり、チームワークを調和・調整なんてできるどころか、迷惑の掛けっ放しになってしまった。
獣のような妖気でもあれば、皆から面白がってくれたかもしれない。
そんな状態でも何とかしなければ、入学入部したことなんて、何にもならない。臭い話だが、屁にもならない。
私の脳は、逃げ場のない、ガチガチの沼の底の底の泥状態。
そうなったら、私のやるべきことは何ざ?
やることは、やる、これしかない。
練習を人並以上に、徹底的に多くやることしかなかった。
一緒にやる練習では、無理矢理に自体を擲(なげう)って、恥かしげながらも強引に技を発揮することだった。
この自体を擲ってやると言われても、そんなに離れ業をこなせる訳ではなく、コナレタ小技を披露できるわけでもなく、無暗に一所懸命やるしかなかった。
言葉は悪いが、小腕、ヤケクソ状態。
入学した学校は、JR山手線の高田馬場駅から徒歩30分。直通バスもあった。
住所は、東京都新宿区にあった。優秀な人材を政・経・文・財・教に輩出した立派な学校だ。私には、とりわけスポーツ分野での傑出が目を見張る。
勉強については、情けなくなるほど夢も希望もなかったけれど、でも、ちょっとは人並みには頑張ろうとは思っていた。
が、入学して勉強しだしたのは3ヶ月ばかり。学校は学生運動の真っ盛り。
校地はバリケードに囲まれ、当たり前のように授業はできず、しばらくはちょこっと学校には行くがふらふらしているばかりだった。
お陰で、サッカーの練習には充実できた。
充実できたからと言って、私の実力は見るも無残な状態だったので、他人のことは兎も角、自分のこと、基本的な技術の鍛錬だけはしっかりできた。
しっかりできた、と表現しても、技術の品度が上がったということではない。
一人でできることに、精一杯、嬉しかった。
何しろ決めた場所にどんな蹴り方でも的確に蹴ること。相手には右、左、高く、早く、、、走る方向に蹴り分けることだ。
与えられたボールを如何に無駄なく処理すること。
高く飛んでくるボールを直接蹴るボレーキック。高くに吊らされたボールに対するヘッデイング、何度も何度も繰り返した。
これらは独りで、基本技術に没頭した話で、これではゲームの1プレーヤーとしては箸にも棒にもならん、情けないことだ。
対陣を交えての試合では、相手が目の前にいつでも飛び出してくる、相手を前に自陣の選手に如何に効率のいいボールを供給できるか、これが大問題だ。
自陣にこの効率の良いボールを出すことが難しかった。
自陣の都合、対陣の都合を考えての配給だ。
高校は、京都府と言っても宇治市のはずれの城南高校。
2年間の受験浪人を経て大学進学を目指したが、私にとって、恥かしながら、大学進学の目標や狙いが皆よりも気魄だった。
専門で学びたいものがなく、さりとて、立派な学業成績を収めて、立派な会社に入社することなんて露ほども考えたことがない。
当然、特に学びたい学問もなく、立派な学校に入りたいなぞ、考えたこともない。
どんな職場に就職しようが、一所懸命に働けば何とかなる、と思っていた。
生家が貧しい農家だったからなのか、他人の頭を下げさせる程の立身出世の気概など持ち合わせていなかった。
私は当然だけれども、私以外の人たちがちょっとでも豊かな生活が営めるようになれたら、それこそが、わたしの念願の喜びだった。
その程度の感覚だったので、いい加減な学生だった。
この大学での練習で、腰から足、肩にかけて大いに筋肉痛にどっぷり嵌まってしまった。それに、無理して無理しての練習は、サッカーの能力が無機能に果てていた、何とか一人前になろうと必死だった。
そんな日が、積み重なっていくと、気が付かないうちに、私の体はガタガタになってしまった。
下手は下手でも、他人に負けないほどには、到底無理だった。
だからやれることは二つしかなかった。
一つは、部の恒例の休みになっている月曜日に、何処までも何処までも走り込むことだった。寮を出て、井の頭公園や善福寺公園まで走る。
公園の中の樹木等の枝や幹を眺め、自分の将来は果たしてどういうことになるのやら?
豊かになれるのか、みじめったらしく終わってしまうのか。
ハット、悲しさに奮えることだってあった。
歩道を走ることだって、電信柱らと電信柱の間を、早く走ったり、ゆっくり走ったり。石垣にぼや~んと座ったり、やることはいっぱいあった。
公園の湖の水をじっと見つめていると、何か訳もなく、楽しい人生がやってくるのではないか、と思えてきて、顏が微笑んでくる。
この魚だって、何かを考えている筈だ。
こんな私だけの特別な休日もあるのだ。
若い男女がボートで楽しんでいる。嬉しそうに時間を過ごしている彼らを見ているだけで、私だって嬉しくなった。
もう一つは、皆とは上手く練習できなくても、その日その日を大切に頑張ることだった。
ヤマオカ、お前なんて幾ら練習したって、試合になんか出られないよ。
無理だよ。
こんなことを、誰から? どいつが言ったから知らないが、私の耳には届いた。
そんな暴言に糞垂(くたば)る私ではなかった。やるだけやるだけ、さ!
走ることだって、どれほど非力、劣悪だったか、自分ながら情けなかった。
だから、やることはやる。
大学の練習を終えた後、自分で自分だけの練習を企てて、一所懸命にやり遂げた。
走ること、キック板へのキックの練習、高く垂れ下がったボールに対してヘッデイング、ボレーキック。友人とのパス、ドリブル。
そんなことをやっていると、係属高校のサッカー部の練習が始まって、私もその部の一員として全ての練習をこなす。
幸い、年上だと言うこともあるが、皆に迷惑をかけなくて済むことで、我が方は気が楽だ。
これだって2時間はやった。この高校から我が大学のサッカー部に入る者もいた。
その中に、私の友人が何人もできた。
それから、グラウンドの側の部室の一部に作られた風呂で、ゆったりと入浴する。
私が入るころには、誰もいない。みんな入って、何処かへ行ってしまった。
この入浴ほど気分のいいものは無い。目をつぶり裏憶えの歌を歌ったり、じっくり居眠りもした。
田舎のことを考えて、自然に涙が流れてくることもある。
時には私が入る前に入浴している後輩が居て、テレビでお馴染みの大岡越前のテーマソングを歌いながら、涙を零している奴も居た。
彼は何を考え何を思っていたのか、そのことについて話したことはない。
郷里を出かける時に母から言われた助言?
生まれてから、母は私に一度もお節介めいた躾(しつけ)を言ったこともないのに、タモツ、お前のお兄ちゃんは家のことで良く頑張っているのだから、どんな大学に入ろうがどんな会社に入ろうが、警察や税務署のお世話になることだけは、絶対やめてくれよ。
母の躾のせいで、我が部の優勝の夜の西武鉄道・東伏見駅でのトラブルや、1970年の安保闘争においての新宿駅闘争、早稲田大学の授業料下げ交渉・会館の使用及び維持管理闘争においても、警察官にお世話になることはなかった。
タモツに言えるのは、唯、それだけや。
父からは、何の助言もなかった。
こんなことも思い出した。
繰り返す、この大学のサッカーにおいて体はやられてしまった。その後の、腰痛問題の種はここで生まれたようだ。無理して無理してこそ、何とか生きられたのだ。
最後に一筆。
こんな私だけれど、4年生になって3試合に1度は試合に出してもらった。
全日本大学サッカー選手権の優勝決定戦に出してもらったのが嬉しかった。私は神風だよ、神風の御蔭だと喚き散らしていた。その神風が、サンケイスポーツの記事に使われた。
関東大学サッカー選手権でも優勝した。2冠を制覇したことになる。
学校を卒業して入った会社は、西武鉄道の親会社。
入社して7年後に、アイスホッケー部に所属している者と私等2~3人以外は、不動産を扱う会社に転属した。持前の不動産を早く売り切らなくてはならないと判断したようだ。
私は、人事部の思惑は何だったのだろうか?原宿駅前の本社宣伝部に移った。
このことについては、同期の誰もが不思議がった。
宣伝のことに興味を持っている奴ならば嬉しく思うことだろうが、吾輩にとっては、こんな苦しいことはなかった。
ホテルやレジャー施設について、難しいこと以外についても、当たり前のように何も知らなかった。
そんな私が、施設や行事、レストランのことについて、誰もが知っているようなことを知らなかったので、各支部、各施設とのやり繰りは、物の見事に電話とファックスで激しく遣りあった。
観光名所や都内にある数々のホテル、ゴルフ場、スキー場、レジャー施設。
ちなみに施設といえば、高輪新・高輪、品川、麻布、横浜、日光のプリンスホテル。中里、三俣、苗場、かぐらのスキー場。
私が京都府出身だから、関連会社の近江観光・近江鉄道のレジャー施設。
それぞれの施設の看板支配人との楽しい会話や飲食については、楽しかった。
今でも忘れられない。
そして30歳の時、椅子に座っての原稿書きのときに、腰の一部に遠い遠い部分からやって来た小さな痛みが、あれよあれよと言っているうちに、ガア~ンガア~ンと雷のような光を発して暴れ出し、私は椅子に座っていることさえできなかった。
上司に状態を話せることもできなかった。
見るに見かねた先輩が、手配してくれた病院に担ぎ込まれた。提携病院だ。
歩くことは当然できなくて、タクシーに乗ることだって精一杯の状態。
その日、上司に診断の内容を話すことさえできなかった。
これが入社して8年目、2回目の腰痛だった。激痛からは暫らくで逃れられたけれど、微痛は付き纏った。
忘れようとしても、いつも痛みを背負っていた。この腰痛って奴はそう簡単に身を引いてくれない。
多分、この腰痛も退社する理由の一つだったと思う。
そして、入社ほぼ10年でこの会社を退社した。
朝、目覚めた時に決心した。ほんの1分間ぐらいの間に。34歳だった。
不思議なんだ、こんなにこの会社のことを一生懸命愛したのに、退社願いを出した瞬間に、愛社精神の一片もなくなるなんて、生まれて初めての経験だった。
52歳。
大学を出てほぼ10年勤めた会社を34歳で退社した。
随分お世話になったこと、知らないことを良くもこれだけ多く教えた呉れたと感謝している。
この会社を辞めるとき、これからの会社の予定があったわけではない。ここらで、暫らく休むことにしよう、これが私の本音だ。
自由になる時間が、急にふくれて、夕方になると誰かと飲みたくなり、ふらふらとあっち行ってグイこっち行ってグイの日々を愉しんでいた。
そんなある日のスナック、昔お世話になったwさんに巡り合って、私の今の状態を話して、その続きに、ところでヤマオカさん、これからどこの会社に入るの言われ、どことも何とも話していないことを話すと、それなら、俺の会社へおいでよと言われ、その翌日には彼の会社の玄関をくぐった。
wさんのことは前からの好みの人だったし、彼自身一所懸命仕事に精を出していた。そんな彼との一瞬の隙間に就職活動は終わった。
それからの仕事は、いいこと悪いこと、簡単に言えば、まあ~まあ~だった。
そして、どうしたのか会社の都合からなのか、ヤマオカさん、この会社を君がやりたければ君が責任者としてやればいいんだが?と相談があった。
wさんの頭の中がよく解らないまま、それはそれで結構ですよと言って、子会社は私の会社になった。役員の変更や出資金のことは短い期間で処理した。
それから暫らくして、親会社は倒産した。
この時、wさん、なんぜ、そんなに気楽に会社を諦めるの、と私の発言は遠慮なしだった。
それからは、よくやれたこともあるし、多少失敗ごともあった。でも、私には友人が多くいてくれたので、何となく頑張れた。
そんな日、毎日私が物件を車で見に行っていたので、足腰がまたまた狂いだした。車の運転も腰には悪かった。
ちょっとちょっとの痛みが、日に日に激しくなってきた。
今は、俺、社長さん。
痛みに真剣に向かわざるを得なかった。
今度は簡単に処理するわけにはいかず、近所の横浜国際病院に入院した。
この病院の施療には原則があって、腰痛には手術はしない、治すのは腰痛施療用の体操を徹底的にやること、これしかなかった。
気安く考えたわけではないが、なかなか治ることはできず、我慢しきれず10日ぐらいで退院した。
この退院した理由については、他人さまには話せないこともあるのだが、今回は書かないで許してもらおう。
痛い、痛いの生活は6か月は過ぎた。
痛みは完全に治したわけではないが、何とか日常を過ごせるようになって、これ以上を諦めた。
この頃、今弊社の経営責任者をやってくれているnさんが入社した。私はnさんの兄貴と仲が良かったので、兄がnを紹介してくれた。
65歳。
高い樹木の枝を払う仕事を自ら遣り始め、或る日、5,6メートルの高さから落下して頭の後頭部を強く打った。
4日ほど気を失ってしまった。気絶だ。
現場の中で大工さんが一人作業していて、その大工さんが私の状態に気づき、警察と救急車に電話してその両者が検分した。
警察の人は、この件については我々の出番はないと言って、帰って行った。
救急車は、脳を強く打っているので精神系のある病院を勝手に調べて、新百合ヶ丘にある立派な病院に私を運び込んだ。
それから、気づくまでは、何がなにやらさっぱり分からなかった。
家族や会社のnさんも病院の私を見回ってくれた。ある程度、怪我の内容を知ったことだろう。
その後遺症は凄まじいものがあって、一番最初にお世話になった病院に入院3ヶ月、リハビリ用の病院に入院したのが3ヶ月。
退院後の生活の最初のうちは、厳しかった。
混雑している通路を人さまにぶつからないように歩くこと、誰もいない階段の上り下りが不安だった。
バランスが悪くなって頭がくらくらするのだ。頭が回った。眩暈(めまい)に苦しんだ。
手摺がある階段ならば何とか我慢できたが、手摺の無い階段を利用するときは恐怖だった。
もっと怖かったのが、一人での夜の歩行だった。
前の電信柱の影に人影のようなものが見えて、と言うか思えてそれの実態が見えるまでの数分間怖かった。前から歩いてくる人間だって、何か奇妙な物像に思えて、近くになるまで心臓がバクバクするほど強震した。
夜中だけではなく、昼間だって、50メートル前の看板の模様が、変に見えたり、妖怪がうなっているようにも見えた。
方向感覚が悪くなったのが会社に出社してから、支障が有り過ぎた。
JRから私鉄に乗り換えるだけのことでも、行き先の方向が、これでいいのか?悪いのか?それだって、解らなかった。
街が、世の中の何もかもが怖かった。
今でも、一番最初にお世話になった病院に3ヶ月毎に定期検査を受けている。
私は担当医に、もう治ったように思えると言っても、妻や子供たちはとんでもない、可笑しなことを言ったり、したり、心配なんですと言う。
なかなか良くならないが、私自身は頭の中は変わらないと思っている。
事実、暗記力や企画力、想像力の継続のなさが目だってきた。
頭の中には色んな脳があって、それらが調整し合ったり、反響・交換し合ったりして、まとまった能力が発生するらしい。
それらのことが、可笑しいままなのだ。
そんな日々の中での日常活動、先ずは歩行さえぎこちないものになって、足腰、手足、肩に痛みが現れた。この痛みも激しいものだった。
最初はそれほど大したものだとは思えなかったが、日が経つにつれて重々しくなった。
そしてその痛みが激しくなって、激痛になった。
リハビリが必要だった。
糞!! このリハビリ中での激痛。人にもよるが、6ヶ月から10ヶ月の治療が必要になることは、知っていた。
元々、私には腰痛の恐怖症があって、人並み以上には治らないことを直感で分かっていた。
事故後11ヶ月後、やっと直ったようだが。
それが本当に治っているのか?
私には解らない。
そして去年(2018)の3月の頃、腰や太腿に痛みが出てきた。
これから桜が咲いて、公園の散歩などを楽しみにしていたのに、嫌な気がしてならなかった。
何も考えずに整形外科院に行った。
ヤマオカさん、これは立派な腰痛ですよ、私のところに100回来てくれたら治りますよ、医者の診断だった。
100回と言わず、私は200回程通う心算でいた。
こういう場合は多い目に採算しておけば、後悔も少ないだろう。
6月には痛みが烈しくなってお医者さんに相談すると、今度はヘルニアが発生していますねだった。
これや~、増々長期治療だ、と覚悟した。
会社では、私の足腰については良く理解してくれて、我儘な治療を許してくれた。
そんな、悲しくも辛い日々が続いた。
が、11月になって、何故か腰の痛みが不思議な程弱まり、会社には、どうも治ったようですと報告した。通算135回目の通院が終えたころだ。
徐々に病院行きは少なくなり、見た目は治ったように、皆は見ていたことだろう。
でも、そんなことを書きながら、今でも腰痛は完治していない。日常の何てことのない作業でうろちょろすることだって、怖くて怖くてしょうがない。
腰痛に頭のフラフラ状態で、どれだけ頑張れるか? それが、今の私の状態。
でも、我慢強い私のこと、何とか免れる方法を身につけている。
大学を卒業して2,3年経って、正式に配属になった事業所で、その事業所の支配人に、ヤマオカ、お前なあ、スイミングクラブの先生をやってくれ、と言われた。
この水泳が、一番の腰痛の療法になる、と後々知った。
お前の嫁ハンに大事なところをやってもらって、そのうちにお前も水泳を覚えてくれ。
俺の早稲田時代の後輩も辻堂と横浜にいるから、そんな奴らにも声を掛けるから、頼むわ、だった。
支配人の早稲田の水泳部の先輩・役員に飛び込み専門の人がいて、支配人に指示がでたのだ。
この飛び込みの先輩が、社長との会話でスイミングクラブを発足したいと、言ったようだ。
それからの私の従業員としての仕事っぷりは、がらんと変わった。
真夏はプールの仕事で忙しかったが、冬となれば、朝から夕方まで泳ぎ続けた。
1日最低5000メートル。
支配人の指示だから、先輩に明治の柔道部出身とか早稲田の空手部出身がいたが、誰にも誰からも文句を言われなかった。
3ヶ月もすれば1日1万メートル、もうすっかり、立派な水泳部になった。
だから、それから、運動不足で体が鈍(なま)ってくると、自然にプールに向かうようになった。
私のような人間にも、気前良くすごせる公設のプールがあっちこっちにできた。入場料が安く、余計なルールが少ない。
最近では、1日1、000メートルをクロールで泳ぐ。実質35分で充分。
平泳ぎが苦手で、バタフライは難しい。
ひたすらクロールだけにこだわっている。
クロールを1、000メートル泳ぐと、それなりに充実感が味わえる。
週に2,3日で月に15,000メートルが目標になっている。
腰痛が烈しい時は兎も角、当然病院に入っているとき、痛み止めの薬を痛飲っしているとき以外は、昔からの癖で、良く歩いた。歩いていると体がほぐれてくる、そんな感覚を身につけていた。
この15年だって、歩いて1時間で通える会社まで、特別なこと以外、歩いて通った。5キロほどあると思うのだが、歩く喜びを覚えてしまった。大きい公園の中、二つの高校の前と後ろ。こんなところでさえ、嬉しく感じるのは、山村育ちのせいかな。
もっと前には、実家から宇治の高校までの通学だって、通学バスならば1時間ぐらいかかるのですが、私は自転車で通学した。宇治川の川筋に沿った道を、下り坂では、バスを追い越した。夏休みを終えて2学期が始まった頃、サッカー部に入ったので、次兄が使っていたホンダ・カブをもらった。帰宅が8時頃になるので、都合が良かった。
これからサッカー狂熱にやられてっしまった。幸せな次代の第一歩だ。
天ヶ瀬ダム
こんなことをして、ずうっと、ずうっと腰痛に耐えている。俺の人生は腰痛との戦いのようだった。