2018年2月10日土曜日

吉田松陰に泣く

小説吉田松陰/童門冬二

そろそろ何かを読みたくなって、久しぶりに古本安売りチェーン店に行った。
途方もなく、何処までも何処までも歩きたくなる日が来る。腰痛の治療には徒歩が一番いいように思える。
私の行く本屋さんと言えば、東戸塚駅前、この類の店しかない。

私の頭が少し狂い出して、先ずは廉い価額で関心深い内容であることが大いに第一条件だ。この選択は割と当たりが多い。
私が、関心深い内容と言うのは、余りに普遍的ではなく癖が有り過ぎるので、この内容については、いつか話せる日があるだろう。私の平凡な人生に関係あるんざ。

吉田松陰の写真

今回は、「全一編 小説 吉田松陰」だ。著者が童門冬二(どうもん ふゆじ)

発行所・株式会社 集英社
文庫版
650ページ
¥108

童門冬二にとって、太宰治はデーモンであり、ペンネームの童門はデーモンからきている。
デーモンってネットで調べたら下記のようだった。
daemon(守護神)とはギリシャ神話に登場し、神々が煩わされたくないと考えた雑事を処理した存在である。同様にコンピュータのデーモンもユーザーが煩わされたくないタスクをバックグラウンドで実行する
17歳で終戦を迎え、特攻隊から戻った少年に対し世間の目は罪人を迎えるようで、その傷を癒したのは、太宰治の著書でその純粋さ優しさに取り憑かれた。
このデーモンについて、私は私なりに理解しているが、童門氏と太宰を併せて、説明するにはなかなか困難ざ。上の内容でエエのかなあ。

氏が都庁在職中、美濃部亮吉知事の都政3期12年に、知事のスピーチライターとして活躍した。美濃部知事退任と同時に自らも退職し作家活動に専念した、とネットで知った。
美濃部知事の都政の実績には、余り記憶はないが兎も角、好きな資質の知事だった。
当時、京都、大阪、福岡の知事が革新系だった。我が故郷、京都府は7期28年蜷川虎三知事だった。

それに輪をかけて、私の大好きな太宰治の人名から謂れを持つと聞いたら、本を手に、財布を振り回しながら、キャッシャーの前に立っていた。
年のせいか、新しく出版された小説には関心がなくなってしまった。
そして読み進んでいく度に、この本の読後感想が必要だなと思いついた。
ネットでの吉田松陰と本の内容が余りにも酷似しているので、両方の文章を借り上げて仕上げた。

松陰は、長州藩の学者だった。
山鹿流の軍学は佐久間象山。松陰の師で、師が書いた詩の書面を象山本人から頂いた。
ところが驚いたことに、思想家でもあったし、精神主義的な教育者でもあった。
「私は攘夷論者です。この日本を神州と思っています。醜夷(しゅうい)から守らなければなりません」
一般的には明治維新の精神的指導者であり理論家であり、倒幕論者であった。

自首した松陰らは下田奉行所に連れて行かれた。黒川嘉兵衛という下田奉行所の役人は、このころ、徳川幕府の主流の中にいた人間だ。
江戸城では、「海防掛らの外交関係の役人は、肩で風を切って歩いている」「飛ぶ鳥を落とす人間の群れだ」とも言われた。
黒川は、ペリーの頼みもあることだし、余り重い罰は与えたくないと考えた。

アメリカ密航を企てたが認められず、下田奉行所に自首したが許されることなく、果ては山口市萩の「野山獄」に幽閉された。何故か、此の塾で松陰は教える立場にたった。
このアメリカ行きには、象山は積極的に賛成?否、それ以上に扇動した。
その後、松下村塾に移り自らも教壇に立った。

私塾「松下村塾」では、後の明治維新で重要な働きをした久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、その他数々の面々を教育した。
この松下村塾では、一方的に師匠が弟子に教えることではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わした。兵学から俳句づくりや絵画までも行った。

基本的な理念は、良いところを引き伸ばそう。悪いところは目をつぶることだった。
被差別者解放活動をやっているものもいた。ヤクザだっていた。思いも寄らぬ知恵者や知識家もいた。
藩下では、この塾での生活を「生きた学問」と言われた。

「こういう事件はなぜ起こったのだろうか。政治とのかかわりはないだろうか。解決するにはどうしたらいいだろうか」という問いかけをして、いろいろ議論する。
学問とは「兵科」と「文科」である。
兵科で教える兵学は、山鹿素行のいわゆる「山鹿流軍学」だった。
文科の教材は雑多で、松陰は、「この本でなければならない」などとは決して言わなかった。
松陰は松下村塾に入門した者を、決してかれらを門人として扱わず「学友」と告げていた。
松陰は塾のみんなとの関係を学友同志とし、ともに学ぼうと言った。

「相手は、一本一本の木だ。種類が違う。したがって、ひそめている可能性もちがう。
それを引きだし、こっちの可能性と乗算(かけ算)を行うことによって、お互いに資質を伸ばしていこう」という、「平等な立場を重んずる相乗効果方式」を期待した。
学ぶ者が100人いたとしたら、学んだ成果は100×100=10、000を理想とした。決して、100+100=200ではなかった。


松陰は、1830年に生まれた。
1853年、同郷の足軽の金子重之輔と長崎に寄港中のロシア軍艦のプチャーチンに会合を持ちたかったが、了承してもらえず諦めた。
1854年、ペリーが日米和親条約締結のために下田に来航した。
長崎行きと同様、金子重之輔と二人で、海外につないであった漁民の小舟を盗んで、ポーハタン号に乗船した。
幕府からも藩からも許可を得て行ったわけではない。
渡航は拒否され、小舟は流された。二人は下田奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に投獄された。そして、山口に移された。

松陰は、行動を共にした金子重之輔に対して、自分が金子君を煽動してこういう目に遭わせたのではないか?と責任を感じた。
だが、松陰たちの獄の近場に治められていた金子が亡くなった。違う牢に入れられていたのだ。
「野山獄」にいた松陰の仲間たちは、金子の死亡を悼み、金子を想う心を俳句にした。金子も金子、野山獄の連中の誰もが心優しい人間だった。
松陰はこのことに泣いた。

ところで今日は、この本の中で使われている言葉に驚いたことから、この言葉はどういう意味なんだろうと、疑いは進んだ。そしてこの稿の始まりになった。
この本は確か1550年前後のことで、本に出て来る書籍や人脈はさすがに難しいものが多く、吾輩の頭脳では理解できないものばかりだ。

下田奉行所の黒川嘉兵衛は、佐久間象山が松陰にアメリカ行きをそそのかしたのだろうと詮索した。松陰は、今度のアメリカ行きとはまったく関係ありませんと答えた。
「師をかばっているね」
黒川はにこりと笑った。その笑顔がなんともいえない。引きつけられる。
人間には、「風度(ふうど)」というのがあるそうだ。
「他人に、”この人なら”と思わせる」というその”なら”のことだそうだ。
魅力、人望、カリスマ性、あるいは愛敬、いろいろなものが含まれる。
いわば一種の「オーラ(気)」のことである。
黒川嘉兵衛はこの風度に満ち満ちていた。松陰はすでに黒川嘉兵衛の魅力のとりこになっていた。


風度とはーーーー
態度・容姿など、その人のようす。人品。風采。風格。
「温和の性情、藹吉 (あいきつ) の―を習い長ずること」〈中村訳・西国立志編

1857年10月に初代の駐日公使ハリスが江戸登城をはたし、今結んでいる和親条約を、通商条約に変えてもらいたいと申し出た。
翌年、井伊直弼が大老になり、1858年、日本とアメリカ合衆国との間で日米修好通商条約をかわした。
江戸幕府が日本を代表する政府とした条約だ。
日本側は14代将軍徳川家茂、アメリカ全権はタウンゼント・ハリス。
徳川幕府が列強諸国と結んだ通商条約は、関税・課税基準の設定・治外法権など、日本にとって不利な条件ばかりだった。つまり、幕府は外国と不平等条約を結ばされたのである。
それもこれも、外国状態にまったく疎(うと)く、金融や物価に対して幕府の役人が無知だったからだ。

幕府は尊攘派の浪士や公家たちを捕縛し、朝廷に圧力を加えた。さらに、老中に就任していた間部詮勝(まなべあきかつ)と大老直弼は、次の将軍は、紀州和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)さまとすると発表した。
これは一橋慶喜を次の将軍とする暗黙裡の協定はご破算になった。

一橋派の残党はすべて弾圧し、それが幕府の役人であったら追放してやる。と心に決めた。これが後に”安政の大獄”になる。
これらの幕府の動きに松陰は憤激した。

「天下は天下の天下ではなく、ひとり(天皇)の天下である」と主張していたから、井伊直弼の行動はまさしく、「天皇に対する不忠の極み」だということであり、「幕府要人を襲撃する」ということであった。
この過激な文章を次々と江戸の高杉晋作や久坂玄瑞たちに送った。

松陰によれば「天下は天下の天下ではなく、ひとりの天下である」。ということで、その一人を「天皇」とすれば、征夷大将軍とその指揮下にある徳川幕府も「天皇の臣下」のひとりにすぎない。

1858年6月、松陰は「狂夫の言」を発表した。
「世人は、ぼくを暴、狂とみている。そこでそういうみかたに対し、ぼくは自らをあえて”狂夫”と名乗ろう。したがって狂夫の提言であるから、これを狂夫の言と名づける」
これは「長州藩の改革案」である。
・人心一致
・言論の疎通
・人材の登用
・学問奨励による人材の育成

松陰の幕府要人の暗殺の考えは、いっこうに衰えなかった。次々と檄を飛ばしては、門人たちに具体的に、「だれだれを要撃せよ」と命じた。
吉田松陰はいよいよ危険な存在になってきたと警戒した。

松下村塾で新しい松本村を建設しようとしていた吉田松陰の耳に、「水戸浪士と薩摩浪士が手を組んで、大老井伊直弼を暗殺しようとしている」という情報が飛び込んできた。
松陰の血が騒いだ。

「井伊大老の暗殺は、水戸浪士と薩摩浪士に任せよう。長州藩士は独自に暗殺計画を立てるべきだ」。老中の間部詮勝を暗殺しようと企てていた。
純粋行動を取る者が、どんどん追い詰められていく。
松陰は切実に危機感を覚えた。

大老井伊直弼は腹心の長野主膳という学者を京都に送り込んだ。
長野は「長州藩の学者吉田松陰は悪謀の元凶です」と井伊直弼に報告した。
「吉田を厳しく取り調べろ」と命じた。井伊の頭の中では、「そんな不届き者は、必ず死刑にしてやる」と考えていた。

伝馬町の牢にいた松陰を、言葉通りなにくれとなく世話をしたのは高杉晋作である。
そこで、評定所のメンバーを前に、「実は私は、かって老中の間部詮勝さまを暗殺しようとしておりました」と述べた。

安政6年(1859年)10月27日の朝、吉田松陰は評定所へ呼び出され、覚悟していた通り、死罪が宣告された。
「慎んでお受けいたします」と静かに頭を下げた。
そして評定所のくぐり戸を出るときあたりから、朗々と詩を吟じはじめたという。
その声を聞いた人びとは「じつに落ち着いていて、われわれの胸に響いた」と述懐した。

吉田松陰は従容(しょうよう)として死んでいった。
(従容とは、ゆったりと落ち着いているさま。危急の場合にも、慌てて騒いだり焦ったりしないさま)

今の今、20180215。
この世にこの日本で、吉田松陰のような人がいてくれるのだろうか。私のような人間にこそ、このような先生が必要だったのではないか!そうしたら、私の人生にとって大層有難かったことだろう。
私だって、未だ未だ人生は続くのだから、私自身琢磨するしかない。貴重な本だった。