2010年11月21日日曜日

今年も、銀河鉄道の夜がやってきた

20101119 東京演劇アンサンブルから、第28回クリスマス公演として、毎年恒例の「銀河鉄道の夜」の案内書をいただいた。招待状も入っていた。今年も、ジョバンニやカムパネルラは不思議な旅をする。決して引き返すことのない軽便鉄道に乗って、本当のさ・い・わ・いを見つけ出す旅に出る。お母さんの愛の愛が、人間の愛の愛が、三次元から四次元の世界へと誘(いざわな)われていく。今年は12月23日か24日に行くことになるのでしょう。誰かを誘わなくてはならん、と思っていたら或る友人がひっかかってくれた。グッドタイミング。友人がふらっと会社に寄ってくれたのです。私は招待を受けているので、有料客を首に紐をつけてでも連れて行かなくてはならないのです。これは私の劇団に対する義務です。友人に感謝。美味い物でもご馳走しなくっちゃ。

その案内書に同封されていたNO95 a Letter From  the Ensemble に劇団員の羽鳥 桂さんの文章が掲載されていた。その中に、羽鳥さんが引越しのための片づけで、『銀河鉄道の夜』の広渡常敏の脚本の初稿が出てきて、それと1999年の「稽古場の手帖」の原稿も見つかって、その原稿を紹介していた。初稿は一字一字いとおしむように丁寧に書かれた広渡の原稿からは、この戯曲への思い入れがそのまま伝わってきたと記述していた。

「宮沢賢治の詩的小宇宙”銀河鉄道の夜”における作品行為を辿る」と題された文章に広渡は書いている。以下はその文章のまま(手を加えていません)転載させていただいた。

作家は自分じしんにむかって書いている。書くという行為が文学であり、その作品行為の痕跡として文学作品があるのだ。作家の作品行為における精神のはたらき、心の動きを読者であるぼくらが追体験しようとする。追体験しながら(当然のことながら)ああ、いいなとか、これはどうかな?などと共感し批評しながら、さらに作品の内奥に分け入ってゆくーーーーー読むという行為はこういうことではないだろうか。

このように考えてくると、読むという行為も書くという行為と同じように、自分にむかって読むといえるようだ。そしてまた芝居することも自分にむかって行為するのだ。こうして読むことも演技することも、その行為を通して自らの想像力の変化に賭けることになる。想像力が変化するということは自分の生き方が変わることだ。宮沢賢治は生き方を求めて行為を書き続けた。ぼくらも生き方を求めて賢治の作品にむかい、ブレヒトに、チェーホフにむかいあうのである。

ーー中略ーー”銀河鉄道の夜”はその祈りも生き方も童話的発想そのものの中で発酵し醸成された作品である。童話という形式の中に宮沢賢治の祈りや思想が盛り込まれたなどと考えないでほしい。童話だけが到着できる地点、童話でなければ表現できない祈りと思想、それが”銀河鉄道の夜”の作品世界である。

そして、今回も羽鳥さんは語り手を担当なさる。稽古の中で先ず演出家から言われたのは「語り手の余計な感情を出すな」だったそうです。賢治の物語を語っていくだけ、目の前に見える景色を、今起こっていることをそのまま観客に伝えるのだ、と羽鳥さんは書いていた。

今年の銀河鉄道の夜はどのように演出されるのだろうか。毎年観に行くのですが、演出の変化も楽しみの一つです。

話は、午後の授業。活版所、家、ケンタウルの祭りの夜、天気輪の柱、銀河ステーション、北十字とプリオシン海岸、鳥を捕る人、ジョバンニの切符、と続く。