「土俵の鬼」といわれた初代若乃花幹士(かんじ)、本名花田勝治氏は、2010年9月1日亡くなった。伝説の人になった。
世間では、栃若時代と言われていたようだが、少年だった私には、そんなことは分らず、父の尋常高等小学校の同期が営(や)っている近所の木下自転車屋さんのテレビを、大人の頭越しに見ていたことを思い出す。
このように、何もすることがなく、フラっとよそのテレビなどを見ていたのは、私が8歳ぐらいまでの時期だったと思う。10歳くらいからは、学校から帰ると大辻商店で店番をしていたからです。横綱になったのは、1958年だとすると、私が10歳の時だ。中学校から高校は、クラブ活動にどっぷりの生活を優先したので、テレビ、まして夕方などは観たことがない。
栃錦も強かったが、後の朝潮との試合の方が印象に残っている。成長するにつれて記憶は濃く残っている。
その日の取り組みは、冬場所だったのだろう、夜は早くやってきた。野良仕事を終えた大人たちがヤケに騒いでいて、みんなの目は真剣、全身に力が入っていた。一番五月蝿(うるさ)かったのは、サブやんだった。サブやんは町民運動会で土嚢を背負って走るレースでは、断トツに強かった。名物男だ。それが、朝潮との優勝決定戦だったように思う。どちらが勝ったのかは憶えていない。
その後、若乃花は勝ち星を重ねた。でも特別関心を寄せることもなかったのですが、小学校だったのか、中学校だったのか、講堂で若乃花の映画を鑑賞した時の感動は大変なものだった。感受性の高い少年だったのでしょう。
その映画で強烈に印象的だったのは、花田家の稼ぎ手としての後の若乃花の奮闘振りが胸を打った。北海道のある港で、船に乗せていたのか下ろしていたのか、天秤棒の前後のざるに鉄鉱石か石炭をてんこ盛りにして、岩壁と船にかけた板の上を担いで渡っていたシーンが、何故か記憶に残っている。このシーンが長かったように思う。
筋肉隆々の男たちに紛(まぎ)れて奮闘する。灼熱の太陽。玉の汗。板を数枚繋ぎ合わせた幅1メートルほどの桟橋(さんばし)を、バランスを崩さないように歩む。
私は田舎育ちで、野良仕事や土木工事では今のように建設重機はなく、仕事は何でも人力によるしかない、そんな作業を日々目にしていた私は、強烈な印象を受けたのです。
その後の若乃花の活躍、弟・貴乃花の活躍、若乃花の子どもがちゃんこ鍋に落ちて亡くなったこと、韓国の愛人がいてその人との間に生まれた子が相撲取りになったが大成しなかったこと、若乃花系からは立派な相撲取りが続々輩出したこと、など、など、もっと若乃花のことを書きたかったのですが、--野暮用が入りまして---ちょっと未完成のまま、ここは終幕。
諸君、初代若乃花のことは、今後話す機会があるだろう。