2010年11月16日火曜日

さすが、野茂さん

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20101109 朝日・朝刊のオピニオン/耕論・「企業スポーツの冬」に野茂英雄さんが昨今の企業スポーツについて、記者に語っていたことが文章として掲載されていた。その記事は下の方に丸々転載させていただいた。

これからの文中、野茂さんを敬称なしで進めさせて貰う。下の新聞記事をを読んで感じたことなのだが、野茂の考えにはこれまでのキャリアが大きく影響しているんだろう、その発言の内容は、ただ野球を愛する者だけではなく、スポーツを愛する者には、神さま仏様の言葉のように聞こえてくる。器の大きい人だ。その一言一言に心が洗われていく。さすが野茂と尊敬してしまう。

そんな野茂のキャリアをたどってみた。

メジャーリーグでの活躍は我々日本人には、海の彼方で凄腕の外国人バッター相手にバッサバッサと三振にうちとっているニュースが映像とともに報じられ、気分のいい思いをさせてもらった。その後、日本人大リーガーが続々と野茂の後を追うようにアメリカに渡った。彼は先駆者だ。その昔、メジャーで活躍した日本人投手に、マーシーと呼ばれた村上雅?を憶えている。南海ホークスではそれほど目立った成績はあげられなかったのですが、子どもの私には彼の活躍が嬉しかった。野茂はメジャーでノーヒットノーランを2度も成し遂げた。が、そんな栄光に輝いていた野茂ではなくて、メジャーに行くまでと、メジャーからお呼びがかからなくなってからの野茂を探ってみた。

父とキャッチボールをするときに、父から「ボールを体を使って投げろ」とは言われていた。その言葉は野茂の頭脳と体に沁み込んだ。小、中学生時代は目立った選手ではなかったが、各名門高校のセレクションは受けたものの、どこの学校からも声がかからず、公立高校の成城工業高校に入学した。高校の恩師は、野茂の投法が体をひねって投げるので、つむじ風投法と呼んでいた。このころから、トルネード投法の、原型が出来上がったのだろう。

高校卒業時には近鉄からの誘いはあったものの、社会人野球の新日鉄堺に入団した。

新日鉄堺の監督さんは言っていた。入団当時、球速が130キロちょろちょろ、140キロにははるか及ばなかった。ローテーションに加わる為には、1種類でいいから変化球を身に付けろと言って、スライダーを徹底して練習させた。フォークボールをものにしたのは、このあたりなのだろう。だから、なのか2年目にはエースになった。都市対抗での活躍が評価され、アマチュア日本代表に選ばれ、1988年のソウルオリンピックで銀メダルに貢献した。

1989年のドラフト会議では8球団から1位指名をを受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。近鉄への入団の契約内容に、投球ホームを変更しないという条項を入れた。契約内容にこんな条文を書き加えたなんて、前代未聞だ。野茂は自由な裁量で指揮を執る仰木監督の下で、才能を伸ばしていった。監督は、野茂のフォームに対する批判を一切聞き入れず、野茂自身にトレーニングを調整させた。この仰木監督という人も、珍しい名指揮官だ。鈴木イチローを育て上げたのも仰木監督だった。野茂は自分で考え出した投法にこだわり続けた。

その後、後任の鈴木啓示監督が、野茂の制球難を克服するには、フオームの変更が必要だと迫った。そんなことがあって、きっと自分の投法に口出しするような監督のもとではやってられないと思い出したのだろう。誇り高い野茂のことだ、メジャーへの挑戦に切り替えた。代理人は団 野村だ。

ここでも、野茂の野茂らしい近鉄退団だった。野茂は近鉄との契約更改で複数年契約と代理人制度を希望したが、1994年には肩をこわして投げることができなかったことで複数年契約には応じられないとのことだったので、近鉄を追い払われるように任意引退選手として、代理人にメジャー入りを委(ゆだ)ねた。これまでこのようなやり方で退団して、メジャーをめざすのは初めてのことだった。野茂は、揺るぎなく自分の意志を貫いた。

それからのメジャーでの活躍は、私がここでとやかく言うまでもない。ネットその他で資料はいくらでも手に入る。私には、そんなことよりも、メジャー時代のことで注目することが二つある。その1は、2002年に同じくメジャーリーグでプレーする伊良部秀輝、鈴木誠とアメリカの独立リーグの球団を買収したことに注目したい。エルマイラ・パイオニアーズだ。下の新聞記事にもあるように、日本でプレーの場がなくなった選手にチャンスを与えたいとの思いだったようだ。自分は無名高校から社会人野球を経て、順調にプロの選手に歩むことはできたが、そうでもない選手を沢山見てきたのだろう。チャンスを作ってやりたいと真剣に考えた結果だった。その2は、1995年にドジャースに入団してから、2008年7月にロイヤルズを退団するまでに7球団に籍をおいたことになる。アメリカではよくあることなのだろうが、それにしても多くの球団を巡ってきたものだ。これも飽くなきチャレンジャーとしての野茂の真骨頂だ。探求し続ける、それは粘り強い野茂だ。

メジャーリーグからは、戦力的に見放された野茂は、それでもそう簡単には諦めなかった。2007年ドミニカ共和国のウインターリーグに参加を試みたのですが、右ひじの回復が思うようにいかず断念した。そして、次にはベネズエラのカラカス・ライオンズに入団するものの成果は出せなかった。このように、かってはメジャーの大投手だったそんな誇りも糞も投げ捨てて、ボロボロになるまで、少しでも可能性があると見極めたならば、どこまでも挑戦を繰り返した。

現役選手としてプレーできないと判断したら、大阪府堺市に「NOMO ベースボールクラブ」を設立した。今度は選手を育てる立場で頑張りだした。これも、野茂らしい。社会人野球が低迷して、アマチュアから優秀な選手が生まれなくなったことに気を揉んでいた野茂は自ら球団を立ち上げた。野球を目指す者たちに、活躍の場を提供したいと想ったのだろう。都市対抗野球にも出場するまでになった。日本の野球界の将来の発展を見据えて、身を挺している。

野茂の野球人生から、我々が学ぶものが多い。

野茂英雄

〈以下は新聞記事です)

大リーグ・ドジャースにいた2002年、米国でプレーする他の日本人選手と共に米独立リーグの球団を買収しました。日本では社会人野球から撤退する企業が増えていました。プレーの場がなくなった選手を米国の自分の球団へ送りたいと思ったのです。

投手の入団テストをしたら驚きました。1人で練習している選手ばかりなのに、いい球を投げる。3人採用しました。素質ある選手は野手にもいるはずで、もったいないと思いました。プロになる機会をもっと与えたいと、僕が資金を出して03年春にクラブチームを堺市に作りました。

クラブは翌年、NPO法人となり、地元企業や全国の個人会員などから年会費の支援を受けて運営しています。すでに6人がプロ野球に入りました。地域の理解を広めるため、小中学生の野球教室や大会を開催しています。応援してくれる人がいて何とか続けていますが、支援先を見つけるのはずっと苦しいです。

野茂の名前があっても、です。例えば毎月1万円お願いしますと言われて、あなたなら出しますか?企業だって売上は、まずは会社や社員のために使いたい。クラブ支援にはメリットも欲しいですよね。記者さんの前では言うのは何ですが、口で言ったり、書いたりするのは簡単です。実際に行動に移すことは非常に難しいです。

企業がスポーツ界に貢献してきたことは間違いないです。僕がいた高校の野球部は全国で無名でした。僕は1987年から3年間、新日鉄堺でプレーして都市対抗やソウル五輪に出たことでプロになりました。今の時代なら、なれなかったかもしれない。

都市対抗の試合では全国から社員が集まります。「野球部のおかげで昔の同僚に会えた」「同じ会社でも知らない者同士で応援できた」と声をかけてもらいました。会社の一体感づくりに貢献していると思うと、野球、仕事への張りも違います。福利厚生としてのスポーツが、会社の利益として還元されていると感じました。

でも、今は企業スポーツはもう限界です。不況でリストラしたり、事業統合したり。会社の存続が第一です。スポーツを見捨てるな、と言っても誰が拾ってくれるのですか。朝日新聞がチームを持ってくれますか。

国に言いたいです。スポーツ振興のために頑張っている団体を救うシステムを作れないですかね。スポーツ支援のため寄付しても、国が認定した一部のNPO法人に対するものでないない限り、税金控除はないのが現状です。様々な団体への無駄なお金が流れている状況を事業仕分けで変えようとしているのはわかりますが、そうしたところにも目を向けてください。

プロ野球選手を夢見ている子どもたちは本当に多いです。うちのクラブのように夕方まで働きながらでも野球をしたい選手は大勢います。そういう彼らにチャンスの場を広く提供したいと、僕たちと同じ志で取り組んでいる人たちもたくさんいます。

野球に限らずスポーツによって世界中の人々が感動を共有できます。一人でも多くにスポーツの大切さを知ってもらい、実際に行動してもらいたい。そのために、僕が言わなければいけないと思っています。

(聞き手・金重秀幸)