2010年11月14日日曜日

確(しっか)り、生きたいと思う

遠藤周作氏のエッセイ集を読んでいたら、終戦直後、氏が学生だった頃の友人で詩人だった野村英夫の詩を2作その本の中で紹介していた。

詩人は31歳で昭和23年に死んでいる。私が生まれた年だ。遠藤氏の友人だから、きっとキリスト教つながりの人だったのか。この2作の詩は、死を予感しながら病床で書いたのかもしれない。清澄で、力強い詩だ。

詩のなかで、キリスト教の施設を有効的に使っている。

昨今の経済状況の中で、自分の立ち位置を見失いがちになっている此の頃の私だから、特にこの詩に惹かれたのだろう。一段一段、確りした足取りで進みなさい、そうすればあなたの生涯は満たされたものになる、と。ふらふらしていたら、アカンってことだ。

そして日々の生活のささやかなことにも、丁寧に、慈(いつく)しみ、優しく接していきたい。苦難にも正しく辛抱強く対処したい。感謝すること、素直に謝ることも忘れないようにしたい。友人を果てしなく愛したい。

私に自分の人生を熟すことができるだろうか、と自問した。できますかね?と再度自問した。

神様は、それァできるよ、できますとも、と私に自答を促した。

幸いなことに、私は健康に恵まれている。そして誰からも愛されている。

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陽を受けた果実が熟されてゆくように

心のなかで人生が熟されてくれるといい。

さうして街かどをゆく人達の

花のやうな姿が

それぞれの屋根の下に折り込まれる

人生のからくりと祝福とが

一つ残らず正しく読み取れてくれるといい。

さうして今まで微かだったものの形が

教会の塔のやうに

空を切ってはっきり見えてくれるといい。

さうして淀んでゐた繰り言が

歌のやうに明るく

金のやうに重たくなってくれるといい。〈仮名づかい、原詩のまま〉

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心の石段を一段一段昇ってゆこう。

丁度、あの中世の偉大な石工達が

築き上げた美しい聖堂を

一段一段、塔高く昇ってゆくように、

私達の心のなかの石段を

一段一段、空高く昇ってゆこう

さうしてもう一度だけその頂から

曠野(あれの)の果ての荘厳な落日に

僧院の庭に音立てる秋の落葉に

人びとの群がった街かどに

また愛するものの佇(たたず)む窓辺に

別離の眼(ま)なざしを向けよう。

さうしていつか私達の生涯が

このやうに荘厳に終えて呉れるといい。〈( )内は山岡が書き入れました〉