2010年11月4日木曜日

「梅棹忠夫 語る」を読む

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20101031 朝日・朝刊に幾つかの本の書評が掲載されていた。その中に、梅棹忠夫(話し手)さんと同じく国立民族博物館の現在は名誉教授の小山修二(聞き手)さんとの対話本の書評が出ていた。人文科学の京都学派と呼ばれる流れのなかの重鎮だった梅棹忠夫さん。

先輩の今西錦司さんの山登りや学問以外の本は痛快丸かぶりで楽しかった。こんな面白い、偉い人が居るなんて、初めての経験だった。梅棹忠夫さんの秘境の探検は胸をゾクゾクさせられたものです。その後、京大のずうっと後輩の本多勝一さんの本では、私は本多さんの鼻息に呼応するかのように、世事のこと如くを嘆き、怒ったり、似非(えせ)知識人や文化人らを批判したりして、勝手に本多派を任じさせてもらっていた。

そんな三人のうちの梅棹忠夫さんの人柄が滲みでる対話形式の本なら、梅棹忠夫の正体〈考え方・生き方〉が窺(うかが)えるいいチャンスだと思った。新聞の書評の(評)が、横尾忠則さんだったので、これまた楽しく読ましてもらった。この書評を下で転載させていただいた。

私はこの書評を読んだ午前中に、最寄の本屋さんに取り寄せて貰うように依頼した。現在読書中です。こんなにして、新刊書を予約したのは何年ぶりのことだろうか。不景気で、私の可処分所得は減る一方で、本を買うのはもっぱら何とかオフの中古本オンリー、それも105円もので何とか満足しているのです。これはこれで、なかなか興味深い世界なんですぞ。

梅棹忠夫さんは、京都大学の人文科学研究所教授を経て、1974年に創設された国立民俗学博物館の初代館長を務められた。本年7月死去された。

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「梅棹忠夫 語る」  梅棹忠夫〈著〉

聞き手・小山修三/評・横尾忠則〈美術家)                           日経プレミアンシリーズ

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生前、今西錦司さんと対談した際、「あんたは学者と違うさかいに今日は遺言のつもりで何でもしゃべるでえ」と言って今西弁の放談が始まったが、本書を読みながら梅棹さんと今西さんがダブってならなかった。というのはこの書が出る前に梅棹さんが亡くなられたので、最後の言葉が現在の日本人に対する遺言に聞こえるのだった。だとすれば心して拝聴せなあかん。

梅棹さんの底の抜け方は今西さん同様、尋常ではない。痛快の一言に尽きる。冒頭から全編、日本のインテリに対する批判が炸裂する。「インテリというものはサムライの後継者」で「オレたちが知識人だ」と町人民衆をバカにしているとーー。

例えばこんな調子だ、「こんなあほらしいもん、ただのマルクスの亜流やないか、----何の独創性もない」と著名な学者の実名を挙げて痛烈にこき下ろす。他人の本を読んでいるだけでは独創性は認められない、独創は思いつきから生まれるもので、「悔しかったら、思いついてみ」と、頭で学問をする人間への舌尖(ぜっせん)はとどまるところを知らない。

学問からは思想は生まれないので自分の足で歩き、自分の目で見たものを自分の頭で考えた文章を書くべきで、他人の本を引用する文章家を「虚飾や」と一刀両断に切り捨てる。

そして自分の人生を究極的に決定したのは「遊びや」と主張し、ついでに思想も遊びにしてしまう。このことはまさに芸術にも一脈通じ、人生の無目的性へと昇華していくが、こんな発想を裏づけるように自らを老荘の徒と呼び、無為、自然の道を重んじた老荘思想の実践者であった。

未練も物欲も享楽に溺れることも捨てた「痛快なる無所有」者は齢(よわい)90という長命のせいではなく、元来がニヒリストで「明るいペシミスト」(本人弁)として、人類全体の一個体として消えていく存在と自覚しておられたようだ。かって今西錦司さんをリーダーとして学術探検に出かけるなど、すべて自前の足と目で学んだ梅棹さんの人生観に触れてみたら如何やろ。