13:00~
早稲田大学東伏見サッカー場
朝起きて小さな庭から空を見上げた、雲ひとつない日本晴れだ。
この雲一つない空、紺碧の空から私は確信してしまった、好い試合が観られることを。
背丈ほどの高さの外気だって、清く澄んでいた。
早稲田大学が勝とうが負けようが、高麗大学が勝とうが負けようが、私がどんな予想を持っていようが、どんなことがあっても相手チームの関係者に言ってはいけない。
このことを、本日の禁句にしよう。
だが、私心の秘めどころに「当ったり前の、クラッカー」があった。
この台詞(せりふ)は、昭和35年前後の関西地区のテレビ番組などで、吉本新喜劇の小演劇でよくよく見せてくれたドラマでの定型句だった。
大馬鹿者になっちゃおしまいよ、それほど私はサッカー気違いではない。
サッカーに関しては攻守の相手に拘わらず、賛否を純粋に複合思考ができるのだ。
そんなことを心の奥にしまい込んで、何食わぬ顔をしてグラウンドに出かけよう。
早稲田大学、高麗大学の選手の皆さん、変則的な私の無礼をご勘弁ください。
このオジサンさん(ヤマオカさん)は、体の芯から芯までサッカーマンなんです。
ネットで得た高麗大学の校舎です。
先週の23日(土)、専修大学に3-0で勝って、我が早稲田大学サッカー部(正式にはア式蹴球部)はなんとか1部リーグ残留ができた。
この勝利の喜びは、唯この1勝獲得だけでは済まされない飛び抜けた喜びがあった。
この試合は、どうしても勝ちたかった。
そして今回は韓国の高麗大学と早稲田大学との第55回目の定期交流戦だ。
後で試合の内容については、詳しくない報告で申し訳ないが、私の冒頭での紺碧の空の確信通りだった。
高らかに紺碧の空だった。
高麗大学はサッカーファンなら誰もが知っている韓国における最優秀校、韓国の大学リーグでも今年は3位の成績を残した強豪だ。
早稲田大学の姉妹校でもある。
話は少し外れるが、私の息子がお世話になった東京理科大とも姉妹校であると知った。
早稲田が訪韓、高麗大学が訪日を1年毎の年次交代で行ったり来たりした。
韓国代表のチームのなかには、何人もこの大学の卒業生がいる、その名簿を見て驚かされた。
私が卒業してから早や48年経つので、その7年前ころからスタートしたとすると、早稲田大学から日本代表が多く選ばれていた時代だろう。
きっと釜本邦茂さんが在学中なのかその少し前からだったことになる。
両校にとって誇り深く名誉ある定期交流戦になった。
私には技量が伴わなくて、まして国外の大学との定期交流戦なんて、どんなことが起ころうが出してもらえることはなかった、当(あ)ったり前のことざ。
だからか、当然私は瞠目、2回の高麗大学の訪日での試合は心に残る壮絶な試合だった。
4年生の部員としての期間が終わり、私は独りで韓国旅行をした。
下関から釜山までは名だたる関釜(かんぷ)フェリー、往復だったのか片道だったのか1万円だった、学生割引を使って9千円払っただけだ。
世にも珍しい貧乏学生のギリギリの貧困旅行だったのだ。
7日間の旅行で、持ち合わせたお金は10万円、それだけで何とか遣り繰りしなくてはならないと強い決意を持っていた。
学生みざりの姿形は私だけ、多くの人たちは大きな風呂敷にいっぱい荷物を入れて運んでいた、大きな荷物を担ぎこんでいる人、幾つかの荷物を大きな棒に乗せて肩に掛けている人、それぞれの人が仕事ながらの雰囲気だった。
私は小さな鞄に1週間の荷物をぐちゃぐちゃにぶち込んで行った。
サッカー部の同期に作ってもらった案内はよく理解しないまま、何とかなる、いつもの能天気発奮だ。
釜山駅の駅長さんは、国籍は解らないが島根県出身の人で、釜山の街の案内を日本語で教えてくれた、お陰で随分助かった。
当時、50歳以上の人は日本語を話せる人が多かった。
そしてオンドル。
泊まった旅館の室内の床はオンドル、または温突(おんとつ)で、その暖かさに吃驚した。
本来の形式は、台所の竈(かまど)で煮炊きしたときに発生する煙を居住空間の床下に通し、床を暖め部屋全体をも暖める設備だ。
一般の住宅ではどのように仕掛けているのか、じっくり確認したかった。
ソウル郊外の高麗大学のサッカー場も見てきたが誰も居ず、静観するだけだった。
本日(20191128)のこと、今、勤めている会社の社長に、いつもいつも我が儘(まま)言って申し訳ないのですが、土曜日の30日、休ませてもらいたいと具申した。
社長は、最近の私の仕事の調子について大きな希望を無くしているのは百も承知しているのだが、イイデスヨ、と歯切れのいい返答をしてくれた。
私71歳、社長60歳前後、長いお付き合いが幸を走したのだろう、決して「功を奏した」のではありません。
先週の土曜日は専修大学戦のため、今週の土曜日は高麗大学との第55回目の定期交流戦のためだ。
何と、自分勝手でいい加減な言い草に、恥かしい気概からすっぱり抜け切ったようだ。
今日の第55回早稲大学・高麗大学定期交流戦のことを知った3週間前のことだ。
早稲田大学ア式蹴球部のホームページを見て気づいた。
なんで、こんなに連絡が遅かったんだと事務局の者に話したら、実は韓国の大統領の周辺に問題があって、それも高麗大学にもその問題が波及していて、予定が立たなかったのですだった。
韓国の政争は、現在の15代文在寅(ムン・ジェイン)大統領が、9月10日に法務大臣を決めてから始まった。
問題は、韓国閣僚人事において、韓国式の権力闘争のなかで疑惑の人物・曹国(チョ・ゴク)法務部長官(法務大臣)のことだ。
この法務大臣には、次から次へと疑惑が持ち上がることを揶揄して「タマネギ男」と呼ばれている。
その法務大臣の息子さんが兵役逃れが5回あって、私自身何も知らないからここで確定的に書けないけれど、息子さんが通っている高麗大学でのことが大きな批判の的になっている。
よって、曹国(チョ・ゴク)法務大臣は辞任せざるを得なくなった。
それまでは、政争のことは私だって新聞やテレビの放映で知ってはいたが、高麗大学でも大騒ぎになって、サッカー部の早稲田大学との定期交流戦の予定を組める状態ではなかったらしい。
それで、組み手の早稲田大学でさえいつどのように用意していいか判断が付かなかったそうなのだ。
で、法務大臣は辞任し、やっと定期交流戦が実行できるようになって、年の瀬が迫るなか、今回の日時に決めることができたらしい。
9時半、自宅を出た。
いつものように蕎麦屋の三晃庵(社長さんはイっちゃん)に行く時間がなく、これも駅前の松屋で牛丼を食ってグラウンドに出かけた、12時半だった。
同期の工藤が、高麗大学のマネージャーと早稲田大学のマネージャーとの間を言ったり聞いたり、指示を出したりしていた。
彼は、今回の定期交流戦の事務局の責任者を任されている、と言っていた。
4年生は、先週の土曜日の1部リーグの「歴史的残留」を目指す専修大学との試合が在学中での最後の試合になった。
それで、4年生と関係者たちは東日本大震災の被災地に出かけ、地元の高校生や大学生とサッカーの親睦試合やお楽しみ稽古をするために、東北で過ごしている。
きっと彼らの顔は、笑顔に溢れて楽しかろう。
総監督の小柴さんに、「小柴、それはとんでもないイイ企画だよ、頑張って来い、楽しんでこい」と4日前に励ました。
「サッカー部には予算が無く結構苦労していると聞いていたので、その費用はどうなっているんだ」と工藤に聞いた。
「行った先は遠いけれど行程もそれなりに大変で、車中2泊旅館1泊ですよ、後のことは余り聞いていないんだよ」だった。
早稲田大学が何か無理をする時は、いっつもこの調子で無理、無理の大売り出しだ。
試合内容については、詳しく報告できない。
グラウンドに早い目に着いたものだから、清清(すがすが)しい風に靡(なび)かれながら、温かい日射を受けて、自身が心優しくなってしまったような気分で、ベンチでうっとりしてしまった。
そんな時間が30分ほどして、高麗大学の連中はどうしているんやろうと気づいたとき、グループを組んで高麗大学のサッカー部がやってきた。
黒い上下のトレーニングウェアー、上衣の背中の部分にKOREA UNIVと白字で書かれていた。
大きい身長、筋肉豊かな体躯、激しい動きでウォーミングアップ。
試合内容については、早稲田大学には嫌味に聞こえるかもしれないが、ひ弱にように見えた。
ところがどっこい、ホイッスルが鳴ってからの早稲田大学は、高麗大学に負けるどころか、私の目には十分、ボールに向かう攻めぎ合いで勝っていた。
相手の体の有利さなんて、何も感じさせなかった。
結果を急ごう、前半2-0、後半3-2、合計5-2で早稲田大学が高麗大学に勝った。
勝ったからこそ、こんな言い方は許されるのだろうが、高麗大学はこの得点差にがっかりしているように見えた。
逆に、早稲田大学は異状に張り切っているようで、この得点差は何が良かったのだろうか?
東日本大震災の被災地に行っている上級生や監督さんたちに、この試合そのものを見せてあげたかった。
そして、彼らの正直な感想が聞きたかった。
高麗大学には応援団らしい人はいなく、控えの選手たちが懸命に応援していた。
方(かた)や早稲田大学はというと、本部の反対側に6人が陣取り、試合の最初から終わるまで、早稲田大学の校歌や応援歌、自分らで作った応援歌をはちきれんばかりの声で、尽きることなく歌い続けた。
この元気印にも、よ~くやったと大いに感謝しなくてはならない。
★高麗大学の歴史をネットからお借りした文章で認めてもらいたい。
早稲田大学とは姉妹校の関係である。
財界に多くの人材を輩出する一方、スポーツの名門としても知られる。
ソウル大学校は日本統治時代の帝国大学の一つである京城帝国大学を、延世大学校はアメリカ人によって設立されたキリスト教系大学を、成均館大学校は王氏高麗・李氏朝鮮時代の王立学舎である成均館を起源とするなかで、完全に民間の韓国人によって設立された高麗大は「民族高大」のスローガンとともに知られていたが、現在では「Global KU Frontier Spirit」を掲げ、学内のグローバル化に向けた改革を進めている。
★昨年の定期交流戦を早稲田大学で作ってあるのをネットで知った。
皆さんにも読んでいただきたい。
2018年8月5日
早稲田大学・高麗大学 定期交流戦
8月1日、羽田空港を出発して2時間程度で金浦空港に到着しました。
高麗大学グラウンドで翌日の試合に備えて練習を行いました。ボール、ビブス、マーカー、スポーツドリンク等を用意していただき、定期戦用の横断幕も設置されていました。
高麗大学グラウンドで翌日の試合に備えて練習を行いました。ボール、ビブス、マーカー、スポーツドリンク等を用意していただき、定期戦用の横断幕も設置されていました。
練習後には大学の食堂で昼食をいただきました。プルコギ、キムチ、もやしナムルなど、韓国料理を美味しくいただきました。
2日は10時から定期戦が行われました。当初は14時からの予定でしたが、韓国でも歴史的猛暑のため試合開始時間を変更しました。
試合前、外池監督は高麗大学のエンブレムに描かれている虎のイメージを選手に問いました。「威嚇してくる」「攻撃的だ」その言葉通り、試合開始から高麗大学の選手は激しい身体のぶつかり合いを物ともせず、ゴールに迫ってきました。相手のプレスに臆することなく、サイドと中央を上手く使い分けることで徐々にペースを握ることができました。20分には岡田(4年・川崎フロンターレU-18出身)のクロスに直江(4年・早稲田実業高校出身)が頭で合わせて先制。35分には岡田の中盤からのスルーパスに抜け出した神山(3年・真岡高校出身)がドリブルで運んで冷戦にゴールに流し込み2点目。
後半は2点を失いながらも、集中力を切らさない高麗大学に立て続けに2失点してしまいました。後半37分、秋葉(4年・駒場高校出身)と千葉(3年・鹿島アントラーズユース出身)の投入により、流れを引き寄せるもチャンスを決め切れずに2対2の引き分けとなりました。
後半は2点を失いながらも、集中力を切らさない高麗大学に立て続けに2失点してしまいました。後半37分、秋葉(4年・駒場高校出身)と千葉(3年・鹿島アントラーズユース出身)の投入により、流れを引き寄せるもチャンスを決め切れずに2対2の引き分けとなりました。
試合後のレセプションでは、先程の激しい試合が嘘だったかのように、両校の選手からは笑顔が溢れていました。8人席に両校の選手が4人ずつ混ざり合いながら会食をしました。お寿司も用意されており、些細な気遣いを感じました。
両校の主将挨拶は印象的でした。「アニョハセヨ.チョヌン オカダ ユウキ イムミダ.(こんにちは。私は岡田優希です。)」と、主将の岡田は覚えたての韓国語で話し始めました。高麗大学の主将は数年間、日本で暮らしており、流暢な日本語を話してくれました。通訳の方がいたのですが、自分で韓国語で話してから、日本語に訳すという姿は会場を温かく包み込んでくれました。
両校の主将挨拶は印象的でした。「アニョハセヨ.チョヌン オカダ ユウキ イムミダ.(こんにちは。私は岡田優希です。)」と、主将の岡田は覚えたての韓国語で話し始めました。高麗大学の主将は数年間、日本で暮らしており、流暢な日本語を話してくれました。通訳の方がいたのですが、自分で韓国語で話してから、日本語に訳すという姿は会場を温かく包み込んでくれました。
サッカーを介して、人と人が繋がる。言葉を完璧に分かり合えないながらも、お互いを理解しようとする、伝えようとする姿勢から、言葉だけでなく、心で繋がっていくような感覚を覚えました。
素晴らしい定期戦がこれからも続くように、来年は早稲田大学が高麗大学を「おもてなし」する番です。
素晴らしい定期戦がこれからも続くように、来年は早稲田大学が高麗大学を「おもてなし」する番です。
4年 小笠原学