2014年3月13日木曜日

東京大空襲

 

新聞記事を読んで、知識の浅薄さを自覚する機会が余りにも多いので、いささか自嘲気味、でも、、、だ、教えられたこと、入手した知識を大事に扱いたい。 知らないことは知らない、知ったかぶりをしない、教えてくれた人には感謝する。今まで、このように生きてきた。

そこで、今回は20140310の日経・春秋の内容だ。

前の世界大戦の終わり頃、当時の政権は、疎開していた子女たちを都会に戻させた。都会から人が去ることは、敵国に戦意を喪失したかの如く見られるとの憶測か、それに日本国民の緊張を高めるためとでも考えたのだろうか、折角、危険を回避するための疎開生活を中止させて、都会に引き戻させたというのだ。そんなこと、初めて知った。そのことについて、この日の春秋は著している。

また、東京大空襲がどんなものだったのか、とネットで調べていたら、先ず第一に、その大空襲で、一夜にして10万人近い人が亡くなったということ、又、第二は、米国のこの空爆の責任者を佐藤栄作政権は、何故か、彼に勲一等旭日大綬章を授与したことに驚いた。学生時代、佐藤訪米羽田阻止デモに参加したが、こんなことは初めて知った。東京大空襲の内容の一部を、ネットより、後の方にマイファイル、転用させてもらった。

今から約70年前の19450310の大空襲は一夜にして10万人近い人が亡くなった(殺された)と言うが、戦争を避けようと、人智の使い方次第では、このようなことは起り得なかった。酷薄な人災によるものだ。3年前の20110311の東日本大震災は、防災に対する備え不足は認めるにしても、神のみぞ知る天災だった。その震災で2万人近い人が、亡くなったり未だに行方が分からない。

私には基本的に身に付けている数字の単位がある。1年間で自殺する人数は、3万人弱。3万2~3千人は東京マラソンランナーの総員。1年間に交通事故死する人数は、1万人弱。神奈川県の人口は9百万人でその4割が横浜市の3百50万人、藤沢40万人で小田原はその半分の20万人。

 

20140310

日経・春秋

「やむをえず方針にしたがうことになりました」。校長先生は子供たちと親を前に、そうあいさつしたそうだ。時は昭和20年3月9日、場所は東京・下町の国民学校。現在の小学校にあたる。卒業生66人を引率、疎開先の宮城県から帰京し、親に引き渡した時の言葉だ。

これから空襲がひどくなり、首都がその標的になると予想していた。せっかく疎開している子を戻すのには反対だった。しかし、やむをえずの帰京。国のやり方への反感を公の場で示したのは、当時としてはぎりぎりの発言かもしれない。「くれぐれも空襲から身を守ってあげてください」。校長先生は親たちに念を押した。

生徒の1人である東川豊子さんのこうした回想を、早乙女勝元著「東京が燃えた日」が紹介している。両親との再会、慣れた町、集団生活からの解放に皆、はしゃいだ。その日の深夜に、爆撃機が来襲。子を守ろうとせぬ親などいなかったはずだが、それでも66人の生徒のうち13人が命を失う。東川さんも父と弟を失くした。

この夜の死者は10万人以上。想定外の数字ではなかった。河出書房新社「図説東京大空襲」によれば、東京の防衛に責任を持つ陸軍中将が空襲の前年にこんな論文を発表している。東京の爆撃で約10万人が死ぬ。 しかし東京の人口は700万人、「十万死んだところで東京は潰れない」。命を見る目の軽さに改めて驚く。

 

『odd_hatchの読書ノート』2012年6月16日付エントリより

著者は、江東区の住人で当時13歳。3月13日(ママ)からの空襲を経験した。この記録が残されていないことに憤りを感じて、東京大空襲の記録を集める活動を開始する。本書はたぶんその第一弾にあたる。係累をたどることで数十名の経験者に対談を申し入れたが、ほとんどの人に断られ、承諾した13人の証言を組み合わせて、3月10日の空襲の模様を再現する。

作戦はこうだ。おとりの2機のB29を東京上空に飛ばし、なにもしないまま房総半島を通して退避させることで、警戒を緩める。その直後に300機とも400機ともいえる大編隊で侵入する。まず、円形に空爆し炎の壁を作り、閉じ込められた人の逃げ場をなくす。そして円の内部を風上から順次、爆弾を落としていく。多くの人は窒息死、圧迫死、二酸化炭素や一酸化炭素の中毒、厳冬の川に逃げ込んだ末のショック死、溺死などを遂げる。たくさんの焼夷弾は人の体を炭化するほどの燃焼力を持っていた。この夜の死者は8万人にもなるという。本書には何枚かの写真が掲載されているが、それは当日および翌日にかけて撮影されたものだ。被害の大きさと悲惨さに目を背けたくなるが、見なければならない。

 

『日本語と日本文化 壺齋閑話』~「早乙女勝元『東京大空襲』より)

(前略)3月10日に東京を襲ったB29の数は、334機という説と279機という説があったりで、正確なことはわからない。落された爆弾と焼夷弾の量もしたがって正確には分からないようだ。米国戦略爆撃調査団の資料によれば、1667トン、これによって焼失した市街地の面積は15.8平方キロメートル、死者の数は83600人、負傷者の数は10万2000人、一日で失われた人間の数としては、戦闘行為も含めて世界戦争史上最大の規模になるという。

早乙女さんが日本政府のとった対応の中で最も許せないことは、この空襲の責任者だったルメイ将軍に対して、昭和39年に勲一等旭日大綬章を授与したことだ。ルメイは東京大空襲のみならず、広島、長崎に原爆を投下した直接の責任者でもある。こうした男に、何故当時の佐藤政権が最高の勲章を授与したのか、まったく理解に苦しむといって、早乙女さんは憤っておられる。日本人なら誰でも同感のはずだ。