大手の某不動産仲介会社から、多摩地区にある中古住宅を、御社の中古住宅をリフオームして再販する企画にのりませんかね、と弊社の担当者に連絡があった。担当者は、へ~いガッテン、うちの会社の生業ですから、喜んで見せてもらいます、と鼻息荒く返答した。
日取りを決めて、担当者と私は現場に向った。空家だった。物件は某大手住宅メーカーが昭和の終わり頃に建てたものだが、リフオーム工事がきめ細かに施工されていて、築後30年以上も経つというのに古さを感じなかった。その居住空間の隅々に、住んで居た人の几帳面な生活ぶりが偲ばれた。洗面化粧台や便器、浴室、キッチンに少しの損耗がみられない。丁寧に手入れが行き届いていた。
ここに住んでいた人の子女らが相続を受けて、息子2人と娘1人の共有名義になっていた。よって、この3人がこの物件の所有権者で売主だ。長男は外国暮らし、次男は埼玉の妻の実家の近くのマンションに住んでいる。娘さんは、結婚して東京でマンション暮らし。この子供らに対して、親の教育が行き届いていたのだろう、それぞれに、立派に豊かに暮らしているようだ。この住宅は相続人の誰にも、住居としては不要なのだ。
仏壇の前には、最近亡くなった主人のものと思われる遺骨が置かれていた。同じ部屋の隅っこには、10年ほど前に亡くなった奥さんの遺骨も置かれていた。主人は、亡くなるまで自分の女房の遺骨を傍に置いておきたかったのだろうか。それとも、納骨できない何かの事情でもあったのだろうか。
な~んだ、両親が亡くなって、その遺骨を今まで住んでいた住宅に置きっ放(ぱな)しだなんて、と少し怒りに近い感情を抱いた。置きっ放しを、言葉を替えれば、捨て置いていることにならないか。外国暮らしの長男はしょうがないとしても、次男や長女はどうして、この家の近くに住みながら、自分の父母の遺骨を、こんなところに放(ほお)り放しで、平気でいられるんだ。死んでしまったら、子どもたちは恩を忘れて知らんぷりとは、ベンベン、これ如何に!!
この住宅を弊社が購入すれば、それで得た資金は相続人である子供たち3人で分配するのだろう。当たり前のように。そして、父母の遺骨をどこかに納める、これで何もかも、お、し、ま、い。こんなことで、死者は報われるのだろうか。親には感謝しているけれど、俺たち私たちにも自分らの生活があって忙しい、ということか。お彼岸が近いので、このように想念が巡ったのだろう。
死亡した当人が私ならと、この事態を自分にあてがって考えてみた。子供たちに告ぐ、戒名や葬式もいらないが、遺骨ぐらいは気楽に早い目に処分してくれ。海でも山でも、樹木の下でもよし、こそっと私の聖地でもある大学のグラウンドに人知れず粉にして撒いてくれるとなお更嬉しいが、そこまでは望まぬ。それらに要する費用ぐらいは、心配かけなようにしなくてはイカンなあ。
死んで子供に財産を残すのもいいだろうが、何か、もうちょっと違う、世のため人のためになる、財産の残し方使い方はないのだろうか、と考えさせられた。
どんな人生であろうと、死んだら遺骨だけは残る。それで一巻の終わり、か!!