20190310(日)
朝日新聞・朝刊/総合3
編集委員・福島申二
日曜に想う
炎の記憶 下町に刻まれた日
先日亡くなったドナルド・キーンさんとともに、故エドワード・サイデンステッカーさん(2007年没)は日本文学に多大な貢献をした研究者だった。
この人の名前なしに川端康成のノーベル文学賞はなかったとさえ言われている。
東京の下町、谷中(やなか)に古くからの墓地があって、サイデンステッカーさんはよく散策をした。
散策するうちに、あることに気づく。
「大正十二年九月一日と昭和二十年三月十日に死んだ人々の墓がいかに多いか」と晩年の随筆集「谷中、花と墓地」に書き残している。
大正の日付は関東大震災、昭和のほうは東京大空襲である。
22年の歳月をはさんで東京の下町を炎で包み、ともに言葉に尽くせぬ惨状をもたらした。
片や天災である。
そしてもう一方は戦災だから、二つは異質な災厄だ。
しかし米軍は、関東大震災による木造家屋密集地の甚大な火災被害に早くから注目して参考にしたという。
その意味において二つの日付にには暗いつながりがある。
手もとの文献によれば、米軍は日本のヒノキに似た建材を用意し、畳や家具にいたるまで忠実に再現した家屋を建てて長屋街を造った。
木材の含水率まで調整をしたり、雨戸を開け閉めして燃え方の違いを確かめたりっして、きわめて周到に焼夷弾の攻撃実験を行ったという。
3月10日未明、279機のB29が投下した30万発を超す焼夷弾に東京の下町は焼き尽くされる。
一夜にして約10万人の命が奪われて、きょうで74年になる。
日本の都市を狙った米軍の周到さには「非情」という語がふさわしい。
効果が計算された冷酷な破壊だ。
それに対して日本は、丸腰の庶民を、お決まりの精神論で立ち向かわせた。
防空法は国民に退避の禁止や消化義務を課していた。
「逃げるな、火を消せ」である。
戦局が険しくなると、「焼夷弾には突撃だ」といった標語も張り出されたという。
非科学的で空疎な精神主義は人々を焼夷弾の餌食にしていく。
逃げれば助かったであろう人まで火に焼かれ、東京だけでなく全国の都市で空襲の犠牲を増やすことになった。
新聞にも痛烈な反省がある。
国が言うままに精神論で尻をたたき続けた。
さらに「火と闘って殉職」「死の手に離さぬバケツ」といった類の「防空美談」をさかんに報じたのも新聞だった。
東京大空襲に続いて名古屋、大阪なども空襲を受ける。
直後の3月20日、本紙社説は「空襲に打(うち)克(か)つ力」と題してこう言うのである。
「われらもまた本当に爆弾や焼夷弾に体当たりする決意を以って敵に立ち向かおうではないか」。
同じ新聞の後輩として胸がきしむ思いがする。
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上空からの無差別爆撃を「眼差(まなざ)しを欠いた戦争」と言ったのは、軍事評論家の前田哲男さんである。
殺す側も殺される側も、互いを見ることがないからだ。
「(殺される人々の)苦痛にゆがむ顔を、助けを求める声も、肉の焦げる臭いも、機上の兵士たちには「一切伝わらなかった」(「戦略爆撃の思想」から)。
知覚を欠くなかで加害の意識は薄れ、殺戮’(さつりく)のむごさばかり増幅していく。
日本軍もまた中国を繰り返し空襲した。
第2次世界大戦、ベトナム戦争など20世紀の空爆をへて、21世紀は無人攻撃機が殺意を運ぶ。
たとえば米国では、「操縦士」は国内の安全な基地に出勤し、遠隔操作で遠い紛争地の「敵と見なした人間」にミサイルや爆弾を撃ち込む。
かって爆撃照準器の下の人間を「点」と見た非人間性はいま、ピンポイント攻撃を免罪符にしつつ、無人機のモニター画面に受け継がれた感がある。
それは人間の命へのまなざしを欠くAI(人工知能)兵器へと続く道に他なるまい。
サイデンステッカーさんに話を戻せは、下町を愛したこの人は湯島に長く暮らした。
谷中の墓にかぎらず、東京の下町はいまも「炎の記憶」を静かにとどめている。
供養の碑や地蔵にはきょう、様々な思いが捧げられることだろう。
炎の記憶は世界の幾多の地に刻まれている。
空襲を、戦争を、鳥の目ではなく地べたの人間の目で考える日にしたい。