20190227の朝日新聞・朝刊を、そのまま転載させていただきました。
はまりこんだデフレの罠
その①「脱却」狙い不良債権処理
銀行破綻 企業も直撃 続く悪循環
2003年10月8日、金融庁に匿名の電話がかかってきた。
東京・大手町にそびえていたUFJ(現三菱UFJ銀行)の東京本部ビルに金融庁が検査に入った翌日のことだ。
「検査前に大口債務者の審査資料を(別室)に移している」
翌日、検査官が情報提供に基づいて会議室に入る。
足の踏み場もないほど、段ボール箱が積みあげられていた。
ざっと240箱。
ダイエーや商社など融資先の実態を示す資料だった。
「融資先の業績が改善する楽観シナリオを前提に、不良債権の額を低く見積もっていたことがわかった」。
のちに金融相として旧UFJを「検査忌避」で刑事告発した伊藤達也衆院議員(57)は、こう振り返る。
銀行が抱える不良債権の処理で「デフレ脱却」に取り組んだ小泉純一郎政権は、銀行の検査を厳格化した。
山一證券や日本長期信用銀行などの相次ぐ破綻を経て、「護送船団方式』は過去のものになっていた。
物価の下落が続くデフレ。
00年代初め、日本マクドナルドのハンバーガーや吉野家の牛丼は大幅な値下げに踏み切り、時代を映す商品となっていた。
「価格破壊」が激化していた。
暮らしにはありがたいように見えて、経済の悪循環を招きかねないのがデフレの罠だ。
物価が下がって企業の売り上げが振るわないと、賃金の下落を呼び消費が低迷する。
供給が過剰になり、まあたもや物価の下落につながるーーー。
日本経済は崖っぷちにあった。
罠から逃れるためにも、不良債権の早期処理が必要だった。
マネーを企業に流す銀行の機能を損なっていたからだ。
五味広文・元金融庁長官(69)は「事実上破綻していた金融機関を処理したら、新しい不良債権が猛烈な勢いで発生した。経済が壊れていた」と語る。
日経平均株価は03年春に7607円のバブル後最安値を記録し、失業率は最悪の5%台を続けた。
不良債権処理がもたらした金融危機は借り手の企業も直撃した。
危機に直面しても不都合な事実から目をそむけ、問題を先送りする空気が根強かった。
不良債権の象徴だったのがダイエーだ。
旧UFJの検査忌避が発覚した直後、小売業を所管する官庁として、「自主再建」をはかっていた経済産業省の幹部が金融庁に申し入れた。
「国策として再建している。その点を踏まえて検証してほしい」
銀行検査への異例の介入だった。
経産省は自らが主導する再建にこだわったが、ダイエーは最終的に、政府の産業再生機構の支援を受けることになる。
「ダイエー再建には決定的な阻害要因があった」。
小泉政権で「金融再生プログラム」をつくり、金融相として不良債権処理を進めた竹中平蔵・現東洋大教授(67)は、官民ともに失敗を認めない体質を指摘する。
「経産省も銀行も大企業も同じだった。失敗に終わったバブル期の計画も『会長が社長のときにやったものだから』と温存し、不良債権処理が遅れた」
「いいものを安く」で消費者の支持を得たダイエーも昭和の成功体験に縛られていた。
「総合スーパーはやめて食品に特化し、コンビニなどのグループ企業を中心に生き残りましょう」。
業績不振の1997年、ダイエーの恩地祥光・経営企画本部長(64)が進言すると、創業者の中内功社長は、「気でも狂ったんか」と答えたという。
家電も衣料も売るダイエーはユニクロやヤマダ電機との競争に敗れた。
ほどなく社を去った恩地氏は「中内さんはダイエーに入れる店も関連企業にこだわった。マクドナルドすら入れない。お客さんが一番いいと思う店を選ぶべきだった」と話す。
いくつもの企業が破綻し、銀行は不良債権処理で100兆円近くもの損失を出した。
それでもデフレは続いていった。
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その②悲観主義が日本経済覆う
3度の金融危機 日銀緩和も効かず
小泉政権が06年9月に退陣する直前、政権内に「デフレ脱却宣言」を探る動きがあった。
日本銀行はその年の春、物価が落ち着いているのを背景に、金融市場にマネーを潤沢に供給する「量的緩和政策」を終わらせた。
7月には、さらに踏み込んでゼロ金利政策も解除し、異例の金融政策をやめる「正常化」に乗り出す、
日銀に理解を示した与謝野薫・経済財政相は「脱却宣言」を模索した。
総務省に就いていた竹中氏は、金融緩和がデフレ解消になるというのが持論だ。
「脱却宣言は日銀の政策転換の正当化に使われる」。
首相官邸に小泉純一郎首相(77)を訪ね、反対する考えを伝えた。
小泉氏は「そんな状況じゃない」と応じ、宣言は幻に終わった、
このとき、経済政策づくりに関わっていた元政府関係者は「『デフレ脱却』という言葉は、利上げを急いだ日銀の金融政策に『待った』をかけるレトリックとして使われるようになった」と話す。
それでも日銀は翌07年2月、もう一段の利上げに踏み切る。
政策委員9人のうち、岩田一政副総裁(72)がただ1人、反対した。
日銀の執行部にいる正副3総裁の意見が割れる異例の判断は「賃金が伸びず、個人消費も弱い」との理由からだった。
現在は、日本経済研究センター理事長を務める岩田氏は「日銀は再びデフレに戻ってもいいと言ったのに等しかった」という。
「金利を上げられるときに上げておかないと、再び景気が低迷したときに金利を下げる『のりしろ』がなくなる。
経済情勢ではなく、金融政策の自由度にこだわる本末転倒の考えが日銀にあった」と批判する。
賃金が当時伸びなくなったのは、戦後生まれの「団塊の世代」の大量離職が始まった時期と重なる。
少子高齢化が賃金の動向に影響与え始めていた。
企業は正社員より派遣などの非正規労働者を雇い、賃金全体を押し下げるようになった。
翌08年にはリーマン・ショックが起き、物価は再び水面下に沈んだ。
第2次安倍晋三政権が12年に誕生すると、「デフレ脱却」に向けて日銀に金融緩和を強く迫った。
総裁が代り、日銀は空前の金融緩和に乗り出した。
それでも「物価上昇率2%」の目標は達成できないままだ。
今は景気拡大の局面にあり、その長さは戦後最長をうかがうという。
しかし、暮らしが豊かになった実感は乏しく、物価の上昇ペースも鈍い。
他の先進国に例を見ないデフレが長引いたのはなぜか。
日本生産性本部の茂木友三郎会長(84、キッコーマン名誉会長)は今年1月、年頭の記者会見で「バブル経済の崩壊を経験し、その後長期の経済停滞が続いた」と平成を振り返った。
茂木氏は「今の企業トップたちは金融危機のころ課長クラスだった人が多い。多額の損失を出すのを経験した世代には、投資に失敗したくないマインドが非常に強い」と話す。
リーマン・ショックの後に、日銀理事になった早川英男・富士通総研エグゼクティブ・フェロー(64)は「日本の企業や個人は『学習された悲観主義』とも呼ぶべき消極性を身につけてしまった」とみる。
3度の金融危機の後遺症というわけだ。
企業は手元に資金をため、投資や賃金に回そうとしない。
海外展開も進んだ。
財界の重鎮ウシオ電機の牛尾治朗会長(88)は「我々経営者は戦後、日本の従業員の顔を見て経営してきた。今や中国などにも従業員が増え、日本だけをみての賃上げは難しくなった」という。
「失われた20年」と呼ばれる時代に生まれたデフレは、日本経済に染みついた。
克服しようと、もがいた末に浮かび上がったのは、将来を見通しにくい日本の姿そのものだった。