2011年6月27日月曜日

やっぱり6月は、太宰だ

(サクランボ 。 上の写真はネットWikipediaから無断で拝借した。太宰が好んだ桜桃(おうとう)ってサクランボのことですか、誰か、教えてください)

毎年、梅雨になると太宰のことで胸騒ぎする。三鷹・禅林寺での6月19日の桜桃忌がやってくるからだ。太宰治の消息が13日(19480613)の深夜11時半以降、判らなくなった。玉川上水下流で19日に遺体で発見されたが、確か、1909年の6月19日生まれだから、満39歳の誕生日に発見されたことになる。今年は東日本大震災があってか桜桃忌のことがあまり話題に上らなかった。

20110614 横浜市緑区三保町に宅地開発用の土地情報が寄せられたので、現地に向かったが、いつもの癖で、情報をくれた川崎の不動産屋さんとの待ち合わせまでには、たっぷり時間に余裕があった。

こういうときに時間潰しを兼ねて利用するのが、何とかオフという古本屋だ。今回の店は、緑区三保町交差点付近だ。店に入るなり、足先は105円コーナーに自然に向く。この何とかオフの古本チェーン店は、店によって置かれている本が違っていて、その違いを確認するだけでも、それなりに楽しいのだ。

そこで、目に留(と)まったのが、太宰という文字だった。受験浪人時代から大学1年生頃までの3年間、それはそれは熱心に太宰、坂口安吾、織田作之助、田中英光、壇一雄、井上光晴、山岸外史などを集中的に読んだ。著者・太宰治の本は、105円コーナーには並ぶことはない。しばらく彼のことはご無沙汰していたなあ、なんて考えると無性に懐かしくなって読みたくなった。昔の虫が今でも生きていた。

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そんな心境の私が居並ぶ本の中から見つけたのは、太宰治の名前を書名に使った本だった。松本侑子氏の「恋の蛍」、副題に「山崎富栄と太宰治」。新田次郎文学賞受賞とある。

「恋の蛍」、書名にも使われた蛍の、今は盛りの時期だ。危なっかしく静かな光を出して、生きている間は命がけで燃えるような恋をする、そんな蛍たち。一度目に入ってしまったら、手にとって確認しないわけにはいかない。太宰を夢中になって読んだ40余年前の自分に戻っていた。

太宰と一緒に入水自殺した山崎富栄のことを書いた本だ。勿論、御代は105円。大学生時代に、山崎富栄の日記をもとにした「愛は死と共に」(石狩書房)を読んだ。この本は彼女が太宰を思う心像を遺書のように綴ったもので、その時は独りよがりの気持ちをよくもそこまで書くなあ、ぐらいにしか感じなかった、が、今回の本で、富栄が生真面目で、純粋で、思索的な人柄、文学的な教養と育ちのよさ、芯の通った凛とした女性だった、ことが偲(しの)ばれた。

富栄の生い立ちから兄(姉)弟のこと、父母のこと、たった10日間だけの新婚生活、夫の戦死のこと、とりわけ日本で最初に文部省認可のお茶の水美容洋裁学校を創立した、立派な教育者だった父・山崎晴弘のことについては興味をもった。明治の東京に生まれ、日本の美容教育の近代化、自らの立身出世を目指して孤軍奮闘しながらも、軍国主義と戦争に巻き込まれ、一切を失った。この元校長を人間的に敬慕する卒業生たちが日本全国に散らばった。晴弘の生きてゆく支えにもなった、

この父と娘を含む山崎家族は、大正デモクラシィー、関東大震災、第二次世界大戦、東京大空襲、疎開、敗戦、動乱の世から戦後の時代まで生き抜いてきた。やっと、戦後の民主的で自由な時代を迎えて、美容学校再建の担い手にと父が望んだ富栄は、太宰との心中で散った。

この本で、富栄を深く知ることができた。

後の方でまとめるが、富栄のことが、彼女の名誉を傷つける内容が、あたかも事実かの如く著述され、その嘘がこの本で明らかにされた。それにしても、立派な著作家たちが、何故、そこまで、富栄のことを事実に反してまでも、かくも悪く著したのだろうか?残された山崎家の肉親たちが、そのことで、どれほど辛い思いをしたかという事実を、この有名な作家たちは、どのように感じていたのだろうか。

野田宇太郎は「六人の作家未亡人」で、富栄のことを酒場女、と唾棄した。臼井吉見は「太宰の情死」で、知能も低く、これという魅力もない女だった。文学好きなどという種類のものでもなかった、と。また「展望」では、人気作家との恋に夢中になっていた女が、その独占の完成のために、強引に太宰を引きずっていったさまを、ありありと想像することができたのである、と。村松梢風は「日本悲恋物語」で、引き揚げられた太宰の死体には、首を絞めて殺した荒ナワが巻きつけたままになっていて、ナワのあまりを口の中へ押し込んであった。つまり情死の相手の山崎が太宰の首を絞めて殺したあとで一緒に入水したものと推定された、と書いた。中野好夫は「志賀直哉と太宰治」で、山崎某女の日記などに見れば、頭の悪そうな、感傷過剰症の女である、と。

 太宰が敬愛していた井伏鱒二と仲のよかった亀井勝一郎からは、根拠もないのに、富栄が青酸カリを飲ませたのだとか、富栄が太宰の首を絞め殺したのだとも書かれた

 鎌倉長谷で富栄ら三人で共同経営していた美容室に客として通っていた梶原悌子は、2002年に「玉川上水情死行」という評伝を上梓(じょうし)した。執筆の動機は、「親しかった富栄の死後、文壇の人々が根拠のない噂や憶測で富栄を中傷し、卑(いや)しめた文章を発表している」のを読んで、「太宰につき添って死んだ富栄が憐れで、一人でも多くの人に本当のことを知らせたかった」(あとがき)からだった。

友人が、この本をざあ~と読んで、一言、この男、太宰治はずるい奴だと言い捨てた。とんでもない奴だ、と。

果たして、富栄は太宰との愛が本当に幸せだったのだろうか。昭和22年5月3日の日記より、彼女の心のうちの一部でも覗(のぞ)かせて頂いて、この稿は終わりにしたい太宰は死にたかったかもしれないが、富栄まで死ぬことはなかったのではないか。それにしても、男はアホで、女は難解だ。

先生は、ずるい

接吻はつよい花の香りのよう

唇は唇を求め

呼吸は呼吸を吸う

つよい抱擁のあとに残る、涙

女だけしか、知らない

おどろきと、歓びと

愛(いと)しさと、恥ずかしさ