2008年5月14日水曜日

「光の雨」/「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」

未完成です。もう少し待ってください
4月のはじめ、銀行からの帰り道、古本屋さんに寄った。
最近、古本を買うときは、チェーン店になっているお店に行くようにしていたので、商店街に前からある古本屋に足を踏み入れたのは、久しぶりだった。
手持ち資金が少なかったこともあって、本を買う意欲は店に入る前から希薄だった。案の定、目ぼしい本が見つからなかったので、店を出たのですが、店頭に本棚が並べられていて、どれでも100円です、と書かれているのを見た私は、棚の前に立ってしまった。
どこまでも、文字が好きな私なのです。


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立松和平・「光の雨」/どのページにも字ががっちり詰まっていた。何かの予感がした。
津島佑子・「火の河のほとりで」/著者は、私の大好きな太宰治の娘さんだ。
吉本ばなな・「白河夜船」/お父さんは立派な文芸評論家で詩人で思想家だ。
辻 仁成・「冷静と情熱のあいだ」/今、もてはやされている人気作家だ。
飯島 愛・「プラトニック・セックス」/私の官能をくすぐる艶本がわりにと考えた。


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この5冊を税込み500円で買い込んだ。どの本も、内容は確認しないまま。投下資本の割には、いい本が買えたと満足した。それも短時間のうちに。
内容を吟味して買ったわけではないので、どれから読むか?と思案六方。立松和平さんの本が、一番分厚く字が詰まっていて、どのページにも余白がない。

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立松和平が、イヤに力が入っいる、と気になってしょうがなかった。この本からやっつけるぞ、と力を込めて、最初の1ページを読んだ。なんじゃ、こりゃ。重っ苦しいぞ。重たいな。でも、やっぱり、と本の半ば部分を適当に読んでみた。
ぎょ、ぎょ。これは連合赤軍ではないか。頭がしゃきっとした。こんな題名から、まさか連合赤軍を題材にした小説だとは露ほどにも想像しなかった。それにしても大した本を買ってしまったものだ。こりゃ、腰をすえて読まなくてはいかんぞ、と覚悟したのです。
そして、私は真剣に読み出した。
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又、不思議な巡り合せだ。この本の読書中、弊社が大株主?の東京テアトル株式会社のテアトル新宿で、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」を上映していたのです。ゴールデンウィークに取り残された?オヤジ等で満席だった。私よりも少し年長の方々だ。自分史を併せて確認したくて、足を運んできたのだろう。
ひょっとして昔の友人でもいるんではないかと、館内を見渡した。
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5月6日、11:00
テアトル新宿
監督・若松孝二


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ゴールデンウイークの私のささやかなお楽しみとして観賞して来た。
映画は実録と題名にもなっていて、立松和平さんの小説は裁判記録をもとにしたものであるから、どちらも映像と活字の違いはあっても、内容はほぼ同じだった。立松和平さんの筆力、若松孝二さんの映像による表現力、ともに私は強い感動を受けた。
私の、チカラの範囲内で内容を纏めてみようと思うのです。映画についての感想は館内で買ったパンフレットの写真を使わせてもらった。その写真で、映画の中身をうまく想像を巡らしてくださいな。それで、良(よ)しとさせてください。それよりも、このパンフレット作成にあたって、重信房子、雪野建作、植垣康博、前沢虎義、吉野雅邦、坂口弘氏等が寄稿したもの、既に発表されているものをダイジェストで転載させていただいた。彼らは、実際に軍に参加した人たちです。
これらの文章が、「連合赤軍」の全ての証明だと思ったからだ。最後の方にまとめました。


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立松和平の「光の雨」の内容を簡単にまとめました。
以下、登場する人物の名前は小説のままにしたが、( )内に本名を入れたので、名前を知っている読者は、少しでも臨場感をもっていただけるのではないか。
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中核派と社学同・社青同解放派の主導権争いが激烈化。学生運動の流れは、全学連から全共闘へ。東大・日大闘争勝利 全国学生総決起集会から、東大安田講堂の攻防へ。ブントの指導部は、機動隊導入の前日、安田講堂から籠城部隊を撤退させるよう社学同の幹部たちに指示していた。しかし、学生幹部たちがその指示に従わず、ブント=社学同は新左翼主流としての面目を失わずに済んだ。
そしてブント内の軋轢が進む。
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そのブント内の塩見孝也の共産主義者同盟「赤軍派」の地下組織「中央軍」と、日本共産党左派(神奈川県委員会)から分派した「革命左派」=「人民革命軍」が「統一赤軍」を形成した。それに京浜安保共闘が加わり《連合赤軍》になった。
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「赤軍派」の地下組織「中央軍」は、幹部が次々に逮捕され、田宮高麿たち9人はよど号のハイジャックを決行した。その後、重信房子たちがが、アラブに行って、日本赤軍を作った。日本では残された中間クラスが権力を握り、革命左派と合体して連合赤軍が生まれたのである。
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この二派は、軍ごとに猟銃店を襲いライフル銃や弾薬を手に入れ、その銃器を武器に銀行や郵便局を襲って現金を強奪した。
やがて、合体した連合赤軍は,山岳をベースでの軍事訓練に入る。
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若松監督は、この映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」のDVDをもって北朝鮮のよど号をハイジャックしたメンバーに見せた。
彼らは、粛清を指導した森 恒夫を「ほんとうに優しい人間なんだ」と言っていた。森は、誰もが演歌や猥歌を歌う中で、革命歌しか歌わなかったまじめな奴だったそうです。ゲバ棒で叩くのさえ嫌だたらしい。「あとを引き受けた責任感で、心身共に強くならねばと半ば妄想のように自分を追い込んでいったのだろう。
彼がああなったのは、僕達に責任がある」とその場にいたメンバーは吐いたそうだ。
森 恒夫がそういう人だったら、もう少し描き方が違ったかもね、とも若松監督は語ったそうだ。
若松監督は、週間朝日に、よど号ハイジャック事件がなければ、その後の連合赤軍事件は起こらなかったのではないか、と言っている。
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立松和平、著者は、「供述調書」「弁論要旨」「判決書」「上告趣意書」「答弁書」など、裁判所の書類に基づいて事実を小説風に書いたとのことだ。
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小説の主人公は、かって、連合赤軍の中央委員として活動を引っ張ってきた玉井潔だ。
私はこの玉井潔が(坂口弘)だと思っていたのですが、そうではなさそうです。でも、玉井潔の動きが、(坂口弘)の動きとどうも同じように窺えるのです。それとも玉井 潔は(吉野雅邦)のことか?
彼は、老衰が痛ましく、死を前に、古アパートの隣室に住む予備校生の阿南満也と同じ予備校に通う恋人、高取美奈に、自分たちが革命を夢みて闘ってきた生きざまを、そのものの実態を、そのことごとくを話し尽くしたいと思いつく。
今まさに、死に際だ。階級闘争の過程において、おこなわれてきた「自己否定」「自己解体」「自己変革」「自己批判と批判援助」と「総括」要求から処刑。
党派闘争もあった。
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自戒、自省、批判を込めて自分が体験したことを、若い二人に告げてからでないと、どうしても死ねない、と覚悟した。
中央委員会は名だけで、倉重鉄太郎(森恒夫)と上杉和枝(永田洋子)が、最後には二人の目配せで持って、命令が下される。玉井と倉重の確執。
ほとんど全編において、自己批判が、総括が、粛清が事実として文字で綴られ、スクリーンに上映され続ける。
その総括で殺されて逝った人たちを書き記しておきたい。それには、なぜ、殺されたのか、ということも。
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先ずは逃走、離脱した今村道子(早岐やす子)と黒木利一(向山茂徳)のことだ。山から離脱・逃走した二人は、強制的に連れ戻し、当時、塩山ベースに牢屋が作られていて、そこに監禁することになっていたが、方針が転換され、殺すことになった。
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二人は、山を下りて都会暮らしをしていたのだが、黒木は山を下りた時点から始まる小説を書いたり、私服刑事と会話することでスリルを楽しんだり、今村は他のメンバーに「山を下りてせいせいしたい」などと語った。
黒木利一も今村道子も、本人はスパイの意識はなかっただろう。黒木利一は小説を書くためではあっても、権力と接触した。もちろん警察のほうから望んでしたものだが、情報を漏らせば組織は壊滅に追い込まれる。黒木はスパイの役割を充分果たしたことになる。今村道子も山にいたことをなんとなく周りの人間に漏らしていた。組織と何の関係もない恋人の医師は、山岳拠点の様子を当然知っていただろう。貪欲な権力は必要な情報をなにがなんでも得ようとするだろう。
無防備な二人をこのまま自由に生活させておくと、敵権力に、軍の情報が漏れることを恐れた。二人とも、殴打して首を絞めて殺した。死人の特定をごまかすために、衣服を剥ぎ丸裸にして、穴を掘って埋めた。
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この二人の殺害は、各メンバーに複雑な心理を与えた。
赤軍派に対するデモンストレーションの意味もあった。当時、赤軍派には銀行強盗などの行動性があり、機関紙などにも理論性が見られた。もう一方の革命左派は自派の先進性を肯定し、自分の存在意義を確認したい心理が働いたのでしょう。
離脱者、逮捕者の続出、獄中最高指導者からの「統一赤軍」問題での抗議反発などで、指導者の統率力が問われる状況に急速に追い込まれていたことが背景にあった。
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当時、革命戦争の遂行のためには、銃による遊撃線の必要性を、連合赤軍は是認し、その方向に向かっていた。この戦いを殲滅戦(せんめつせん=皆殺し)と呼んでいた。

ここで、改めて確認することもないのですが、連合赤軍はこの銃を手にしたときから、当然のごとく、究極の革命へと盲進した。
この銃が痛ましい。
銃さえ手にしなければと思うと、嘆かわしい。
でも銃も革命には必要かもしれない。
が、使用するまでの方法・手段を間違ったようだ。
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国会では、彼等の動きを防止するための破壊活動防止法を制定した。
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この二人の殺害のために、メンバーを車に乗せて移動する際、強制的に運転手役をやらされた谷口淳子(小嶋和子)は、たびたび離脱未遂を繰り返した。軍では彼女が唯一人、運転ができた。そのために、友人の殺害という思わぬ場面に遭遇することになり、この軍の行動に疑念を抱き始めた。この谷口淳子は、今村道子と同じ看護学院で、共に学園闘争を闘ってきた同士だったのである。

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次は高田ゆみだ。上杉和枝(永田洋子)が高田ゆみに「あなた、軍事訓練中、どうぢてクリームを塗っているの。銃を持つのに関係ないんじゃないの」、このセリフから始まった。
上杉和枝はしつこく追及する。「あなたは、決意表明の時に、女をアピールするかのようにお化粧をしている。銃を持ちながらその場で必要もない高価なネックレスをしている。何処まで女であることを強調しているの。それは男性兵士にとっても反革命的ではないのかしら。戦闘中に女を強調すべきではない。要するに革命戦争にとっては、女であることは敵対行為なのよ」。
高田ゆみは「あなたが、何を言っているのか解らない」と反論する。
小屋の中で、上杉和枝は、全員に聞こえるように、必要以上に、これでもかこれでもか、と責め立てた。
この上杉和枝の高田ゆみ攻撃には、二派が合体して新たな軍への脱皮を図るべき、無理な締め付けがあったようだ。また、元革命左派が元赤軍派の山岳拠点における行動を安易にとらえ過ぎていると攻撃したかったようだ。
上杉和枝には、元革命左派の方が、山岳ベースにおける活動については、元赤軍派よりも、優れた活動をしてきたという自負があった。
翌日、軍事訓練が行われ、高田ゆみの射撃の順番がまわってきた。
高田ゆみは銃を腰だめにし、銃口を白い雪に向けて引き金を引いた。だが、台尻を腰にぴったり付けていなかったので、脇腹を銃の台尻で激しく打たれる格好になった。その痛みに耐えかねて、訓練場を離れようとした。
その夜、上杉和枝から、「山岳での戦闘を想定しての訓練なのに、あなたはその意味が解っていない。お腹を打ったぐらいで、戦線を離脱するのは、革命戦士とはみなされない」と追及され、総括を受ける。
殴る、蹴るの果て、柱に縛り付けられた。
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倉重鉄太郎の上杉和枝に向ける視線には、恋愛感情の兆しがみえてきたようだった。
この辺りから、「連合赤軍」は完全に狂いだしたようだ。
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大学のキャンパスで開かれた同志二人による交番襲撃一周年記念集会に参加した戸張真(加藤倫教)が山岳拠点に戻ってきた。弟二人を見て安心した。合法の集会に参加した者がこんなに早く山岳拠点に戻るのは、権力に嗅ぎ付けられる可能性が高く革命的用心がたりないのではないか、と戸張の行動を問題化した。
山岳拠点の空気が以前に比べて、余りにも違っているので驚いた。
谷口淳子は、戸張の恋人であった。谷口は微笑を押し殺して戸張を迎えた。
帰ってきた夜、戸張は革命歌を歌おうとメンバーに声をかけたら、皆も唱和した。
会議していた指導部が、足音荒々しく姿を現し、「呑気に歌など歌っているんじゃない。どうして総括に集中しないのだ、正座しろ」と。
正座から解放された戸張は谷口の横に寝袋を敷いた。二人は寒気のなかで人差し指で、爪で、唇で、歯で、誘い合って外に出て、唇を吸いあった。
抱き合う二人は、上杉に見つかる。
「歴史に残る革命の発生の地を、お前らの犬のような薄汚い欲望で汚しやがって」
「総括を援助するために殴る」
そこにいたメンバーが次々に殴った。となりで、谷口も殴られた。女性メンバーからも殴られた。弟二人(加藤能敬)(加藤元久)にも、殴らせた。谷口と戸張は柱に括り付けられた。
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ーーーーーーーーーー(中途です)--------- 
戸張を総括援助のためにみんなで殴っている時だった。北川準がよくも俺を小市民と言ったなと、金切り声を上げて、戸張を殴った。倉重鉄太郎は、革命戦士になってもらいたいと願って、同志を縛ったり殴ったりするような高次元の闘争をしているのだ、と演説をした。
そして、北川準の審問になった。
北川準は山岳拠点に向かうため東京の某駅の窓口で電車のキップを買った時、刑事に行き先を知られてしまった。尾行がつき、山岳拠点が急襲され、同志達は一網打尽に弾圧されてしまうかも知れない。革命戦争はこれで終わってしまう。そんな妄想を抱いた北川はとりあえず後進に革命戦争を受け継いでもらわなくてはならない。そのために、武器を埋めた場所を伝え残しておかなければならない。紙きれにその場所の地図を描き合法活動のメンバーに託した。
そのことについて、倉重は刑事にキップの行き先を知られたのは不用心、また、それだけで、軍が崩壊すると妄想するのは、軍への信頼が全くないことを意味する。我々の党を過小評価し、その裏返しとして権力を過大評価している。権力への敗北をいつも考えてします思想を敗北主義という。我々は銃をとった瞬間から敗北主義との闘いを開始したのだ。
おい、北川、お前は浜田真二同志の気概をもって闘うんだ。闘う相手は、浜田真二同志を虐殺した警官だ。北川準の総括援助のため、誰か警官になるものはおらんか。
そこへ警官代わりに現れたのは、この立松和平さんの「光の雨」の今にも死にそうな老人の玉井 潔だった。玉井は体力万全で、北川は怯えていた。
縛られていた戸張は、身を乗り出さんばかりに泣き声で、北川を励ましていた。
寝袋に入って寝ようとした北川に倉重は、「甘ったれるんじゃない。まるでお前の総括は、終わったみたいじゃないか。シュラフに入るなんて贅沢だ。立って総括しろ」と怒鳴った。また、北川は殴られた。夜を徹して、薄着のまま極寒の小屋内に立たせ続けた。」そして、衰弱して死んでいった。
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重信房子(元・日本赤軍リーダー)
なぜ我でなく君だったのか
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日本からベイルートへ来て1年、丁度アラブの慣れはじめた72年3月、私は26歳だった。PFLP情報局「アルハダフ」の事務所に突然日本から国際電話だと交換手が告げた。「『三時のあなた』の山口淑子と申します。赤軍派が仲間を殺したのをご存知ですか。山田孝さんご存知ですか。この方が殺されました。あなたのご意見をお聞かせください」。たたみかけるような突然の情報と質問。電話機を置くと激した感情に立っていられずにしゃがみこんでしまった。何かとんでもないことが起こった! すぐにバーシム(奥平さん)に伝えながら、泣き続ける私を慰めたのは彼だった。「スパイと間違って殺されたのかもしれないじゃないか」と。それからすぐ、殺されたのは一人ではなかったこと、遠山さんも殺されたことを知った。私はもう泣かなかった。泣けなかったのかもしれない。逆にバーシムは号泣し、傍らにあった本の一節を繰り返し繰り返し読み続けた。「隊伍を整えなさい。隊伍を整えなさい。隊伍とは仲間のことであります。仲間でない隊伍は、うまくいくはずがないではありませんか。全軍は91人と72挺の銃を残すのみとなった。しかしながら、われわれはどんな困苦欠乏にも耐えうる、もはやわが血肉、革命の志で結ばれた同志のみであった」。中国革命途上の長征の話か、繰り返しその一節を彼は暗くなるまで読み続けた。
アラブでの「連合赤軍事件」は、そのように始まり、私たちの心の中に深く刻まれてきた。風化させたくない痛みであると同時に開けて欲しくないパンドラの箱だった。
それを今回、若松監督が『実録・連合赤軍』として映画にした。私は観ることができないことに正直ホッとしているところがある。近しい仲間が、仲間によって傷つき死んでいくことに目をそむけざるをえないのは当然だろう。
かって私は、大学のバリケードの中の若松映画のオールナイトを観たことがある。「極致的」シーンになると「映倫カット」で空白のままのフィルムが続いて何も映らない。観客は「ナンセンス!」と叫びながら共感した。ならば、あのように出来ないか!? 「極致的」シーンは、ブランクでいい。見れない‐--。「連赤」は今も風化させて欲しくない私たち一人ひとりが問われた時代の証であり、開けて欲しくないパンドラの箱だ。ヒューマニズムのない革命は存在しない。勇気あるヒューマニストは、やっぱり目をつぶって、『実録・連合赤軍』を観るだろう。
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男が泣くおいおいと泣く哀しみは
君の強さの思い出となる
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催涙ガス除けるレモンを噛みながら
笑ったあなたは 「連赤」に死す
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雪の降る日に巡る思いはあの時に
なぜ我でなく君だったのか
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ふりむけば孤立の道を青春の
証のごとくひた走りしわれは
『ジャスミンを銃口に』より
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雪野建作 (元・革命左派メンバー)
青空の記憶と、輪廻
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25年後にはじめて訪れた上州の山々は、緑に萌えていた。
迦葉山、榛名山、倉渕村といまわしい事件の記憶をとどめる山々と村落は、ようやく冬の眠りから覚めて、若葉の季節を迎えようとしていた。いちばん標高の高い榛名山でも、見通しの良い冬枯れの梢に、春霞のような新緑のベールをまとっていた。あと10日もすれば、むせかえるような新緑にあふれることだろう。
私の中にある、「山」の印象は、あの事件を知るまでは、あくまでも明るく、開放的な世界だった。しかし、あの過激な事件を経た後では、春の新緑は、私に「生」とともに「死」を想起させるようになった。生があるから、死がある。死があるから、生がある。生と死はひとつながりの円環ををなし、悠久の昔から未来にわたって連綿と続いている。春の新緑も、生と死の円環のなかで、しばしのあいだ燃え上がる命のように、私には見えるようになった。
山で惨劇が繰り広げられていた頃、小菅の東京拘置所にいた私は、同士たちはてっきり都会のアジトで冬を過ごしているものと思っていた。火の気のない独房で、私はわずかに、食事時に配当を受けたヤカンの湯で、掌を暖めたものだった。はじめはやっと手をつけられるほど熱い湯も、冷え切った掌でヤカンをかかえているわずかの間に、すっかり冷めてしまう。この年は、何度も雪が降り、2月末の時期にもまだ根雪が残っていた。厳冬のさなか、仲間がまだ山にいようとは、私には夢にも思えなかった。
小袖のバス停で落ち合った吉野君は、ハイカーのスタイルでバンダナを額に巻いていた。こうして、私と瀬木君は、3ヶ月近い札幌の長屋住まいを終えて、先に上京していた永田たちに合流した。1971年の5月のことである。
そのころ、山の生活は、息をひそめて暮らしていた北国の町の潜伏生活とくらべて、開放的で明るかった。折りしも、奥多摩の山は新緑に萌え、生命感にあふれていた。私たちは、久しぶりに会った仲間たちと議論し、時には酒を飲んでインターンを思いっきり歌った。
まず、落ち着いた所は、使用されなくなったキャンプ場で、小袖川沿いに建てられた管理棟と集会場を中心に、大小数十のバンガローが配置されていた。思えば贅沢な「小袖キャンプ」であった。管理棟には、四畳半位の和室と、大きな二つの竈(かまど)のしつらえられた台所、それに大テーブルを椅子が囲んでいる食堂があった。私たちはこんなところで議論し、食事をし、「軍事訓練」をおこなった。
山を下りようとして連れ戻される者がでたり、厳しい生活に耐えられずに都会で姿を消す者もでた。しかし、指名手配中の私にとっては、次に移動した塩山の野営地もあくまでも明るく、美しかった。ナメと呼ばれる、きれいに半円形に浸食された沢を流れる、澄んだ流れ。川の両岸に迫る斜面の森林に囲まれた、仰ぎ見る夜空に輝く星。流木の陰から何度もあちこち顔を覗かせる、好奇心あふれるオコジョ。もし、私があの時、あのような境遇にいなかったら、山の自然はあれほど美しく輝いていなかったのかもしれない。
しかし、その野営地にも、山を去った「脱走者」を収容するための小屋が、葦を束ねて作られていた。半年後の破局につながる萌芽が、さまざまな形で現れていた。
それから1年後、私は再逮捕されて、警視庁の地下の留置場にいた。円形に配置された居房の外側の窓からは、小さな青空が見えた。その一瞬、塩山の抜けるような青空の記憶が甦り、決して戻ってこないあのころと、仲間たちへの痛切な思いが、あふれるように押し寄せてきた。

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生まれたばかりの魚のように
はじめて知った、水の冷たさ

ふるさとの川の流れに、いま、手をつけてな
ぜか、涙があふれる
なんでもないのに
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そのころ、東京拘置所のラジオで心にしみ通るような想いできいた歌が、青い空の鮮烈な印象と共に、胸に残っている。
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植垣康博 (元・連合赤軍兵士)
歴史抜きでは語れない
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実際に起こった事実を映画化するとき、なによりもそれを歴史的に描くことだろう。実際、「連合赤軍」をそれ自体として、歴史的背景を抜きにして描くことほど馬鹿げたことはない。それでは、連合赤軍がなぜ誕生し、どうして自滅としかいいようのない結果に至ったのか考える糸口さえつかめない。
その点で、若松さんの『実録・連合赤軍』は、歴史的な流れを丁寧に追及している。ともすれば、「仲間殺し」だけが強調される連赤が、けっしてそれを目的にしていたわけではないことを、全体の流れのなかから明らかにしようとしていること、しかも敢えて実名を出すことによって、それぞれの人物がどのように振る舞い、生きようとしたかを描こうとしていることが最大の特徴ではないかと思う。これは、赤軍派、特にその後の日本赤軍と関わりを持っていた若松さんだからこそできたことだろう。
ただ、その反面、そうであるが故に、当事者である私には大きな違和感を抱かされることが多々ある。たとえば、妙義山の山越えが、雪原の縦走になっていたこと、しかも夜間ではなく昼間に変わっていたことは、なにやら気の抜けたビールのような感じがする。それまでの「総括要求」というわけのわからない戦いに振り回されていた中で、警察との遭遇を通して、やっと目に見える敵との戦いが可能になった。このことは、仲間を殺すというはかりしれない苦痛から私たちを解放してくれることになった。そうした昂揚した状況下で、今から思えば不可能としかいいようのない夜間での妙義山の山越えを行ったのであるから、そこには特別の意味があったのである。
そうした面から『実録・連合赤軍』を見ると、どうしても言わざるをえないことは、絶望的な状況ばかりが強調され、何の希望も見出せないこと、従って、全体的に極めて暗いものになってしまっていることである。
たしかに連赤を明るく描くことは無理なことであろう。しかし、私は絶望的な思いをもって戦いに参加したわけではないし、ずっと暗い気分でいたわけではない。それにもかかわらず自滅という事態に至ってしまったのは、私たちが武装闘争を通してより大きな問題にぶつかりながら、それを解決できる方向を見出せないまま、個々人の決意や精神力によって突破しようとしたからである。そうした面を少しでも描いていたならば、映画に対する印象はずっと異なったものになっただろう。
そういう意味から言えば、若松さんの『実録・連合赤軍』は、連赤問題を若い人たちが正面から考えていくきっかけを与えてくれる映画ではないかと思う。
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前沢虎義 (元・連合赤軍兵士)
40年近く生き残ってしまった
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40年近く経った今も、まだ生きていなければいけない。
日本人は、2000万人が殺されたと言われる「大東亜戦争」を起こし、敗北した。
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1973年1月1日、東京拘置所内で自死)ーーーーーーーーーーーーーーーーー
元旦になってしまいました。いい天気です。山田さんが入れてくださった花が美しく咲いています。
一年前の今日の何と暗かったことか。
この一年間の自己をふりかえるととめどもなく自己嫌悪と絶望がふきだしてきます。
方向はわかりました。
今ぼくに必要なのは真の勇気のみです。
はじめての革命的試練ー跳躍のための。
1973年1月1日 森 ーーーーーーーーー
注 「山田さん」とは山田孝の妻。山田孝は森による総括要求のため、1972年2月12日、妙義山瀧澤の洞窟で死亡した。
同年2月17日、永田洋子とともに群馬県松井田町で逮捕。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
坂口弘 (元・連合赤軍中央委員)
1993年2月 最高裁にて死刑確定。
常(とこ)しへの道ーーーーーーー
いつしかダンテになぞらへ
現代の
地獄めぐりせる心地するなりーーー
屠殺(とさつ)なる言葉
おのづと思ふなり
三人 四人と一挙の処刑にーーー
通路の上
蒸気が漏れて揺蕩(たゆた)へり
あの下を昨日曳かれ行きしか
ーーー
わが名前を新聞歌壇に見つけたる
午睡(ごすい)の夢見に
涙ぐみたり
ーーー
花の雨に
声を絞て鳥啼けり
黙して死にし同志ならむか
ーーー
われ勝てり
かの名誉毀損訴訟にて
警察上がりの男に勝てり
ーーー
指導者を憎みをれども
第三者の彼への批判は
不愉快になる
ーーー
これが最後
これが最後と思ひつつ
面会の母は八十五になる
ーーー
十二なる数字もて
総括犠牲者を括(くく)りたる記事の
堪え難きかな
ーーー
慰安婦にされし婦人を
質(ただ)せるが
板垣戦犯のせがれなりとは
ーーー
酷(むご)き過去は
寝静まりてより思へとや
寒き夜風に窓の鳴るなり
ーーー
一夜明けて
雪化粧せるアルプスよ
連赤の名も厳かに変れ
ーーー
捕虜とせし
ゲリラ全員を銃殺せる
無法に人は黙しいるかな
ーーー
なぜ吾を認めざるかと
総括にて縛られしあと
凛と言いたる
ーーー
起きしなに死にたしと
つね思いつつ
なす仕事ありと思い直すも
ーーー
指南のできるものなら
月の夜に
思ひの丈を吹いてみたきかな
ーーー
新左翼運動を誰一人として
総括をせぬ
不思議なる国
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー塩見孝也 (元・共産主義者同盟赤軍派議長) ーーーー
迷妄の霧が晴れるとき
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6月27日、待ちに待った、若松孝二監督による『実録・連合赤軍』を観ました。
「リアリズム」「事件の評価の核心における正鵠性、トータル性、人間性の掘り下げの深さ」「70年大会戦の革命闘争とそこでの諸問題を真正面から向かい合い掘り下げている真摯さと協調性」---。僕ら、かっての「革命戦争派」、革命的左翼は、あれから40年近く経ってではあれ、苦節するなかで、従って、やっと、ということでしょうが、あの事件を映像化する事に成功した、といってよいと思いました。
連合赤軍とその光と影は実に描きにくい対象です。
それを実現するには、近・現代史への、透徹した見識、歴史観が必要で、今まで、この課題に優れた数々の映画監督が幾度も挑戦したものの、その映像化を許さなかった程の対象でした。
ドストエフスキーが幾人いても描けないほど、連合赤軍事件は、人を寄せつけないような、エベレストを越えた、さらに峻厳なる高峰として聳立(しょうりつ)していたのでした。
それを、若松監督は見事、やり遂げた、と言ってよいと思う。
「当事者」の僕としては、このような映画を、亡くなった同志達、今も獄で苦しみながら不屈に闘い続けている同志達、傷ついて今も彷徨している人々、外国の地で、祖国日本を憧憬しつつも、帰れず、今も苦闘している同志達、連合赤軍事件の真相を知りたいと真剣に調査、研究している若い人達に対する、何よりのはなむけ、鼓舞激励の作品と解したいと思います。
重ねて、監督にありがとうと言いたいのです。
もっと、大きな視野で捉えれば、連赤事件というドラマは、日本、否、世界の民衆運動の成熟程度をシンボライズする事件でありますから、この過去の成熟程度を、民衆自身が乗り越え、新しい成熟段階に到達しないかぎり、或いは、その門口、端緒に立たない限り、もっと言えば、そういった萌芽の現象を、人間的感性の鋭さとトータルな見識、教養において捉えきる予兆能力を持った、確かな芸術家が輩出しない限り、どうしても全面的には描けない対象だと思います。
あれ以降の後対戦、迷妄が社会と民衆全体を覆っていた、約30年間を経て、心ある人々が、苦節の中で、やっとトータルな思想的、政治的視野、布陣を先駆的に獲得し始めたとき、それが伝播し合う中でしか、映像化し得ない対象です。
霧が晴れ始めた時、過去が見え始め、同時に未来が見え始め、現在の位置が正確に掴め始めます。
天の時、地の利、人の和、と言いますが、この映画はそれが、合し始めた今の時期、これからの未来を、切り裂きつつ、これからの未来を照らし出す意味合いをもって、誕生したように思えます。
監督は、革命的左翼の最前線に立ち続け、その世界での動きを、思想的、政治的に捉えr切らんと身を処し続けてこられた人でした。
こういった人でない限り、こういった映画は、絶対に撮り切れません。
その意味で、この映画は、今後の日本と世界の民衆が進むべきスプリングボードをがっちりと提供してくれており、過去30年間の、権力者達が布石し、民衆がその迷妄にマイイドコントロールされてきた迷妄の霧を、この映画は、すっきりと拭い去ってくれます。
迷妄の夜霧の中を、民衆の巨万の軍船が、進むべき進路をしっかりと照らし出す、最高に性能ある確固たる灯台であるといえます。
僕も、ここでは赤軍派議長として、正当な歴史的評価を与えられ、登場してきています。
これは、僕が、公的に復権されることとして、終生希(ねが)っていた要望の実現でした。
この点でも、監督に感謝したいです。
身に余る光栄ですが、監督は、僕の著作をしっかりと読んで下さっており、相談もかなり頻繁にあずかりました。
僕の意見を、じっくりと聞き届けてくださり、それは、ほぼ95%パーセント、映画に貫かれています。
細部につきましても、要点をしっかり質問され、疑問も晴らされたようでした。こういった、予断と偏見なき目が、多分に、この映画を、さらに輝かせる要因になっているのでは、と自負します。
監督や参加された人々と、この映画の感想、評価を交換、分かちあうべく、上映後に予定された「ロフトプラスワン」の感想、批評会には、是非、出席したかったわけです。
しかし、翌日の会議に向け、文章を用意しなければならず、泣く泣く僕は家路につきました。
実に、返す返す、残念至極なことでした。
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