「わたしの母さん」という児童小説がある。
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小学校4年の主人公、高子は算数が得意で、学級委員をしている。気がかりが一つ。明るいけれど、少し変わった母親のことだ。
月初め、母さんは日めくり暦の一枚一枚に封筒をはりつけ、千円札を2枚ずつ入れていく。毎日、その2千円を財布に移して生活に充てるのだ。高子は「ひと月分を同じ袋に入れておけばいいのに」と思うが、母さんは大きな数の計算が嫌いらしい。
さらに連絡のプリントにはフリガナをつけてと学校に頼んだりもする。あきれる娘はある日、母が生後間もない熱病で知的障害を負ったことを知る。父さんとは、養護学校高等部の同級生だった。
作者の菊地澄子さん(73)は養護学校などで教えてきた。この作品も体験が元だ。突然の真実に立ちすくみながらも、母を理解し、優しく伸びてゆく少女。
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2008 0516
広島は巨人に7-1で勝った。
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広島の39歳、高橋が8回1失点でチームの連敗を止め、リーグトップタイの5勝。内外、高低を巧みにちりばめた。
このゲームのことについては、勝ったチームは喜び、負けたチームは悔しがった。あたり前のことだ。両チームのファンも同じように喜んだり、悔しがったであろう。
どこに、勝因があったのか、どこに敗因があったのかは、誰もが解説者になって勝手に楽しめばいいのだ。
ところが、この編は「いい話、かき集め」なのです。
巨人のことが大嫌いな私にとって、巨人が負けるのは嬉しいのです。
正確に言うと、巨人が嫌いなわけではなく、ナベツネだけが嫌いなのです。そんなオヤジがグループの親会社の会長だからです。
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G惨敗 渡辺会長激怒
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巨人が惨敗した。打っては高橋から今季17イニング目に奪った1点のみ。守っては4投手中、3投手が失点した。阪神とのゲーム差は9。観戦した渡辺恒雄会長の堪忍袋の緒も切れた。「Aクラスを目標にしろ。優勝しっこない。こんな馬鹿なことやっていたら」。主力の不振や故障者続出で、ただでさえ悪い雰囲気に拍車をかけて帰っていったそうだ。
あんた、スポーツには、もう口出しすんな!!
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080517 巨人は5位に転落した。ナベツネは如何に?
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ジャズトランペッター・日野皓正
アジアの人々が仲良く
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アジアを一国にしたいなんて、ジャズをやっている日野皓正さんだから言えるのかもしれない。日本を飛び出して、拠点をアメリカに演奏活動を行っている。定期的に日本にやってきては、子供にも、楽器から演奏から音楽の楽しみ方まで教えている。彼にとっては、国境なんて無きに等しいものなのだろう。
ーーー(聞き手・宮坂麻子)アメリカではいろいろ学んだけれど、差別もすごかった。大きなフェスティバルともなると、日本人のリーダーが名を連ねるなんて、とんでもないという感じなの。黒人は「おれたちのジャズ」、白人は「アメリカのジャズ」。どちらからも「なんで、イエローなんだ」って言われる。
アジアの人々が黒人の「ヘイ、ブラダー(兄弟)」ってのと同じ感じで仲良くなれれば、世界中が相当変わると思うんだ。世界平和だってめざめるんじゃないかな。
ミュージシャン、とりわけジャズをやる人には国境なんて意識はないのだろう。
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小渕恵三首相が亡くなって、早いもので、もう8年になる。
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命日は5月14日だった。
「思いやりの政治家」だと、言われた。
米軍基地の重い負担に苦しむ沖縄に強い思いを抱き続けていた。00年の夏のサミット(主要国首脳会議)を沖縄で開催を決断した。だが、本人は出席できなかった。今年は、北海道の洞爺湖畔で開かれる。
ここで、書きたいのは、その小渕さんの人柄のことです。
小渕さんが外相だった時、オルブライト米国務長官が小渕氏を「ディスアーミング(disarminng)な政治家」と評したそうです。「武装を解く」つまり「相手を安心させ、和ませる」といった意味で小渕氏の思いやりに通じる。
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「負の世界遺産展」を自前で続ける
後藤勝美さん(68)
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愛称はGO。名刺の肩書きは「えかき」。「画家だと硬い。好きなモチーフを好きに描く。気ままがいい」
そう言いつつも、アウシュビッツ収容所跡などを描いた水彩やアクリルの絵約40点を並べた展覧会を続ける。「負の世界遺産展」の名で。
10歳の時、病気で聴力を失った。「他人と話をしなくてもすむ」と絵の世界を選び、画家の道へ。だが、ろう学校を出た仲間の低賃金と劣悪な労働条件を知り、仲間と共に闘おうと、20代半ばで筆を折った。
それからは福祉運動ひと筋。映画の絵看板作りで生計を立て、ろう劇団やろう者美術展も創設した。だが絵心はくすぶり続け、51歳で画業再開を宣言。運動は後輩に委ねた。
「人に営みの跡」「暮らしのにおい」にひかれる。古い家、工場跡、路地裏ーーー。柔らかな筆致の絵が人気で個展は100回を超えた。
アウシュビッツを訪ねたのは昨年6月、小さな靴の遺品の山に「もの言えぬ人たちの心の言葉を感じた」。
震える思いでスケッチした。その時の衝撃と日本の改憲の動きに突き動かされ、昨年8月、東京で遺産展を始めた。今月初めに千葉・幕張であった9条世界会議で11回目に。
会場さえあれば、岐阜市の自宅から全国どこへでも車で作品を運ぶ。
ふだんは、「ろう画家」をみずから名乗ったりはしない。遺産展だけは別だ。「平和を訴えるろう者の画家が一人ぐらい、いていい。戦争は障害者を生む。だから声を上げたい」
(文・写真 朝日新聞 中沢一議)
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