3日の憲法記念日に、あわせておこなった朝日新聞の全国世論調査(電話)の結果が紙上にでていた。
憲法を
変えないほうがいいとの回答が、66%。
変えるほうがいいが、23%。
憲法改正が必要とする人が56%いるが、その中で、9条改正を
支持する人の割合は37%にとどまり、
54%の人が9条は変えないほうがいいと答えた。
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私は小学校の5年生から護憲派だ。伊藤先生の影響を強く受けた。
陰では先生のことを、いと(伊藤)にチンチン、ぷらぷらと、と呼んでいたのですが。先生の憲法にかける情熱は半端ではなかった。お兄さんを戦争で亡くしたと仰っていた。右手が不自由だったけれど、左手でチョークを力いっぱい押し付けて黒板に字を書くものだから、チョークの欠片(かけら)と粉で、ホワイトボード下の床は真っ白になった。
こと、憲法に関しては、護憲を問答無用で支持し、児童に対しては強圧的でした。ぐちゃぐちゃ、議論するまでもない、そんな態度だったように思う。
中学校は宇治田原町立維孝館中学です。江戸時代の藩校だった。
中学生の時は、森本先生(世界史)、吉岡先生(体育)も護憲には熱心だった。
森本先生も、吉岡先生も二人ともスケベーで、男子生徒には人気があったが、女の生徒には嫌われていた。
森本先生は教職員組合では、エライんだと自慢していた。吉岡先生は、職員室で赤旗(共産党の広報紙)新聞を読んでいた。「たもっちゃんも、読んでみ」、と薦められた。労働者、組合,賃金とかそんな文字が、紙面のあっちこっちで躍る。イヤな気がしなかった。なにか、先生を励ましているような内容だったように思った。
吉岡先生は、後に宇治の中学校の校長先生になられた。私は、他人には漏らすわけにはいかないエッチな秘技を教えてもらった。この仔細は二人の名誉のために、絶対口外は許されません。悪い先生で、大学受験のための浪人中に、酒を教えられた。
高校時代の岡田先生(政治経済)は、過激だった。高校は京都府立城南高校です。スポーツも勉強もしない、覇気のない高校だった。立ち食い弁当だけが、伝統だった。弁当を食いながら、あっちこっちの教室や廊下をウロチョロするのです。
5月1日のメーデーの日には、岡田先生は学校内で一番輝いていて、格好よかった。大将だった。赤旗を振りながら、同僚の先生と肩を組んだり、私たち生徒にもスクラムを組ませた。学校の行事の際、国旗や校旗を揚げるポールに赤旗を揚げた。
当時、京都は社共が支援する蜷川虎三知事だったので、中小企業や農家に対していろんな対策が講じられていた。実家が貧しい農家だったので、助成金を用意してくれる知事のことを、父から教わった私は子供心に感謝していた。蜷川知事は反帝、反米、労働者の味方だった。
そして、憲法記念日の日の岡田先生の「政治経済」は、生徒を誰一人となく飽きさせなかった。自由民権運動のさなか、板垣退助もかくもこれほど熱っぽくはなかったのではないか、と感心させられた。
このようにして、私は護憲派になった。