朝日新聞 文化・文芸
2016 9 26 月曜日の朝刊
破滅文学、苦悩教の始祖と呼ばれた。
全体性をつかもうと格闘し続けた。
作家・高橋和巳氏は、1931年、大阪市生まれ。
日雇い労働者の多い西成区で育つ。
太平洋戦争の空襲で実家と零細工場を焼失。
1949年、京都大学文学部に入学した。
そして、5年後、10年後に人気作家になった。
26日の朝日新聞・朝刊で、並み居る作家の紹介の後に、高橋和巳さんの紹介記事が出てきたことに、吃驚した。
私にとって、高橋和巳は今、此処に一緒に暮らしている作家だった。
こんな状態で紹介される人になってしまった。
彼の作品を、大学を卒業してから数年間、読んで、読んで、読みまくった。
それから30~40年、恥ずかしながら、あれほど愛して愛して、魂が狂うほど好きだった氏のことを、恰(あたか)も忘れ去ったように過ごしていたことを、悔(くや)んだ。
それほど、仕事が楽しかったのだ。
頭脳が辺境な私の読書歴は、実に偏狂だ。
大学に入る前から卒業するまでは、新戯作派、無頼派と呼ばれていた作家の作品ばかり読んでいた。
太宰治や坂口安吾、織田作之助 田中英光、山岸外史、壇一雄たちの著作物だ。
前記の作家以外にも、何人もの作家のものを読んだ。
アホの馬鹿読みだった?のだろう。
私の生まれは、1948年、昭和23年。
劣等生の私が、2浪の果てに大学に入ったのが、1968年。
2年間、皆よりも遅れたものだから、サッカーだけではなく、ただ、皆の邪魔にならない程度に練習をするだけで、大変だった。
今年の9月23日で、68歳。
大学時代はア式蹴球部(サッカー部)に所属したものだから、勉強の怠慢さは当然の当然。
身辺に勉強のことを話し合う仲間や友人さえも、いなかった。
勉強しないのが、「当たり前だのクラッカー」、、、、、、だ。
吉本新喜劇の、お馴染みの当たり言葉。
幾ら下手くそでも、サッカーは愉しかった。
何度、ヤマオカ、荷物を担いで、田舎へ帰れと言われたことか。
代表的な本は、
・「悲の器」
・「邪宗門」
・「わが心は石にあらず」
・「日本の悪霊」
・「わが解体」
・「孤立無援の思想」
・「憂鬱な党派」
・[堕落」ーーーーだった。
社会人になって、最初に購入したのが太宰治の全集、その数年後に高橋和巳作品集を買った。
私の自慢の、買い物だ。
太宰治の全集は3度読みなので、これは人生の記念樹にと想って買った。
高橋和巳の作品集は、よっぽど張りつめて読んだのだろう、か?
どの本のことも詳細に憶えていないのが、恥かしい。
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これからの文章は、全て新聞に書かれていたものの転載です。
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2014年に 『邪宗門』で始まった河出文庫の高橋和巳作品の復刊が、没後45年にあたる今年、『憂鬱なる党派』 『悲の器』と続いている。
『邪宗門』は戦前・戦中に弾圧された宗教団体が、戦後、世直しのため武装蜂起し、政府とGHQ(連合国軍総司令部)に鎮圧される物語。
『憂鬱なる党派』は1950年代の左翼運動の分裂を背景にし、『悲の器』は自らのスキャンダルに法をもって戦う刑法学者が主人公だ。
社会思想史研究者で京都精華大学専任講師の白井聡さん(39)は、少し前に高橋作品と出あい、感銘を受けた。
『永続敗戦論』の著者らしく、「敗戦と革命の挫折」に思いをはせた、という。
「対米従属批判は60年安保の頃までは盛んだったが、経済的成功とひきかえに不問に付されていく。
安保法など戦後の総決算が迫られている今の課題は、この時代に根があったと改めて痛感しました」
社会に肉薄「求道者の文学」
もう一点、白井さんが刺激を受けたと話すのは、人間社会の実相に肉薄する作家のまなざしだ。
権力はいかに複雑な構造に支えられているか。
同じ世界観をもちながら、どんな卑俗から思惑から亀裂は生じるのか。
この夏の都知事選で敗北した野党共闘を見るにつけ、政治と人間への冷徹で豊かな想像力の引き出しを持つことが、市民の側にも不可欠だと思ったという。
政治思想史研究者で放送大学教授の原武史さん(54)も、学生時代に読んだ『邪宗門』の衝撃が忘れられない。壮大なスケールで描かれる『虚構の戦後像』。
マルクス主義の影響がまだ強い中、宗教という土着のものに根差した変革をめざす着想も斬新だった。
促されるように、大学院では、小説のモデルとされる宗教法人大本の本部に、資料収集のために滞在する。
国家への反乱は架空の物語だが、大本の歴史の中で、天皇制や国家神道に対峙したとみられる要素があったことを知った。
「政治と宗教の問題を掘り下げていく自分の研究を、決定的に方向づけた小説です」
一般には難解な点も多い。
でも生前退位問題はじめ天皇制について考えることが重要ないま、作品の問題提起は古びていない、と原さん。
「阿修羅」のごとく悩み続け
すぐれた中国文学者でもあり、母校の京大へ赴任した高橋は、全共闘運動に一定の支持を表明した。
教員の権威主義や知識人の欺瞞に自覚的だった。
やがて学生との板ばさみに苦しみ、39歳の若さで病死する。
葬儀には多くの若者が弔問に訪れ、「思想的事件」と言われた。
「自己指弾」の文学がたどり着いた悲劇と惜しむ論評もあった。
だが批評家の若松英輔さん(48)は、そうした現象的な作家として語られすぎたことが、三島由紀夫と並ぶスターで文学史に残る力量ある作家を「過去の人」にしてしまった理由の一つとみる。
高橋の作品世界の神髄とは「求道者の文学」だと、若松さんは言う。
人間と人間を超えるもの。
語り得ることと語り得ないこと。
時代と永遠。
理想と現実ーーーー。
「ままならない問題の『あいだ』に立って苦しみ抜いたからこそ、宗教を、外側からだけではなく内面の海、実在をもって描き、沃野を切り開くことができた。彼の作品を政治運動や時代の文学置き換えてはいけない。
同時に、あまりに形而上学的に受け止めてもいけないと思います」
個人の実在から世界の成り立ちまで。
「生涯にわたる阿修羅」としての思索の往還が、全体が見えない時代を生きる私たちを、静かに鼓舞する。
(藤生京子)
高橋和巳の憂憤ーー33回忌に |
● 高橋和巳の死を知ったのは、軽井沢のホテルだった。 不安をぬぐいきれぬまま、連休を利用して出かけたつましい家族旅行の旅先。 急遽、鎌倉・二階堂のお宅の通夜に駆けつけ、泣きくずれた。 「悪かったわね。あなたに本当のこと言わなくて・・・・」 高橋たか子さんは毅然としていられた。 肩を叩かれ、私は絶句した。 入院先の病院には、同人雑誌仲間の井波律子や古川修と見舞いに行ったのだが、その病状がすでに絶望的であることなど、もとより何も知らされていなかった。 花々に埋まれ、高橋さんは永遠の眠りについていた。 野辺送りの日、その顔は白く静かに映え、棺に打つ釘音が五月の鎌倉の風にむなしくひびく。やがて斎場で、白骨の一片をつまみながら、私は高橋和巳の死をしだいに確認していた。 ● 三十九歳という若さで生き急いだ高橋和巳とは、いったいわれわれにとって何だったのだろう。 一九六二年、第一回文藝賞『悲の器』で華々しくデビューした高橋和巳は、その翌年、立命館大学文学部講師を辞職。上京して念願の作家生活に入り、『憂鬱なる党派』『散華』『邪宗門』『我が心は石にあらず』『堕落――あるいは内なる曠野』『日本の悪霊』『黄昏の橋』などを精力的に発表する。 絶望、破滅、堕落、暗黒の下降意識に沿ったモチーフの根源を、高橋和巳はひたすら殉教者のように負った。登場する主人公たちは、いずれも栄光ある国家、社会、組織から宿命的に弾劾される。いや、自らの選良忌避の告認である。ゆえに追放され、地獄の苦悩と叫喚に引き裂かれる。 われわれはいつも滂沱の涙を流しながら、その小説を読んだ。 なぜだったか。 思うに、終世、高橋和巳はやみがたい憂憤に駆られたまま、そこに言動のすべてを収斂させていく。孤立の憂愁と褐色の憤怒。 その日本的ラディカリズムというべきものが、内なる感覚のくすぶりを挑発し、静かに熱狂させていた。 一九六七年、恩師の吉川幸次郎博士の強い招聘で京都大学文学部助教授に就任。 「小説も、一種の念力で書くものでね。その念力さえ涌いてくれば、もうこっちのものさ」 花形作家はよくそう言った。 学生として大学の研究室を訪ね、大阪・吹田のマンションに遊びに行き、気がつけば同人雑誌『対話』復刊に、私は加わっていた。高橋さんが鎌倉から京都に舞い戻っての月例の読書会は、熱気が入っていった。 そして、生駒・宝山寺前の旅亭での夜を徹した文学論は白熱した。花札に熱中して、三日間、丹前にくるまり、夜も昼も無心に札を引いたこともある。 やがて、若者のアイドルとなった高橋さんは、全共闘運動とともに尖鋭苛烈な時代の最先端に突き出される。だが、病に倒れ、入院。京大紛争の中で、その内的葛藤を綴った最後の著作が『わが解体』となった。 ● 通過儀礼でもあるまいに、大学自治なるものの幻想と虚偽に立ち向かう青年たちに、高橋和巳は新たな政治的実践者としての全存在を賭ける。それは文学の自己指弾、自己処罰としての営為でもあったのだろうが、大学闘争の過程で、義に近い人間関係を重んじ、道義性を深くうつたえ、人間それ自体の変革を説く高橋和巳は、常に蒼白に身を奮わせて迫る。会議、集会、団交、デモ。路上に火炎瓶が炸裂し、学生たちは血を流し、バリケードが築かれる。 だが、全存在を賭けないお祭り好きの学生たちは興ざめし、孤立と高揚の裂け目がさらに深まる。 にもかかわらず、高橋和巳は無上に優しかった。泣きたくなるほど、切ない魅力を持っていた。祇園のお座敷に上がり、 「お前に、このお姐さんの美しさが分かるか」 と酒をぐいぐい飲みながら言った。いや、美しさが分かるかということよりも、この時、高橋さんは私をダシにいったい何を企んでいていたのか。 また、先斗町の飲み屋では、 「キラリ光った流れ星、燃えるこの身は北の果て、姓は高橋、名は和巳・・・・・」 と唐獅子牡丹もどきに、音程はずれの『網走番外地』を歌ってくれもした。 だが、まもなく、夜明けの仮寓で嗚咽し、不規則な生活もたたって脇腹の激痛に苦しむ。大学の教授会にボイコットされて孤立無援の中で鎌倉に帰り、病床で喘ぐその姿を見るのは無上につらかった。 末期ガンを知らされた梅原猛先生は、病院に見舞いに訪れた時、 「こういうことで腹を切ったんですが、これで、もう自分の業は終わったと思うんですね」 と高橋和巳は手術した腹部の無残な傷跡を見せながら言った、という。 聞かされ、凄いことだと私は思った。 高橋さんは、おそらくその死を覚悟しながらも、本来のあるべき自己の純粋な内面の文学を書くことを悲愴に決意していた。 ● その後のモーレツからビューティフルな高度消費社会、イデオロギー対立の冷戦構造の終焉、また、バブル後の今日の不透明な社会状況の中で、あの憂憤の高橋和巳が、もし元気に生きていたとしたら、どう対応し、変容し、どのような作家的成熟を果たしていたのだろう。 むろん、あの六〇年代から七〇年代に向けて疾走した極限と葛藤の高橋文学が、ふたたび熱狂的に迎えられるということは、おそらくもうあるまい。だが、それにしても、作家の個性や言動は、もっとつややかに語り伝えられてしかるべきであろう。 幸いにも、良友に巡り会い、百愁安慰す。 友愛の詩型を慄然と説く福島泰樹は、高橋和巳に献じる魂の告白として、第十八歌集『黒時雨の歌』を上板。また、藤井省三はひと夏の軽井沢の山荘で、『堕落』における中国皇帝の意味を備えた黄色の傘の存在と文芸評論のあり方について論じ、日本ペンクラブ獄中作家委員会のあった帰りの酒席などで夫馬基彦は「愛読しましたね。あの情念に魅かれましたからね」と言い、そして、小嵐九八郎とは大宮・氷川神社際の雨の夜の料亭で、蜂起には至らずと酌み交わしたことなど、決して忘れることはできない。 孤独な薄明のリングで、いまなお、高橋和巳は熱っぽく語られつづけている。 五月、切なく、苦しい。 われら憂鬱党、同士数人、その夢と志を秘めて、いまだ健在。高橋和巳三十三回忌。一壺をかかげ、初夏、高らかに献杯。 |
『図書新聞』2002年5月25日号 |