20160603 モハメド・アリさんが死去した。
信念の拳 世界を揺るがした。
彼こそが、世界の、スポーツを愛する人々、人の権利を尊重する人々、人種差別の撤廃や信仰の自由を高らかに奉じた人間らの、世界チャンピオンだった。
誰よりも、隣人をこよなく愛した。
この3日に、我らの神様だったアリさんが亡くなった。
瞬間、私の体も死んだように固くなってしまった。
翌日、アリのことを報じる記事が、朝日新聞に載った。
今後のためにも、是非、転載させてもらうべきだと考えた。
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朝日新聞が報道した記事を、今後のために書き残しておこうと思った。
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先ずは、20160604の朝日新聞夕刊から。
モハメド・アリ氏 死去
元ヘビー級王者・徴兵拒否
プロボクシングの元ヘビー級王者、モハメド・アリさんが3日、米アリゾナ州の病院で死去した。
74歳だった。米NBCが報じた。
リングの外でもベトナム戦争への反対や人種差別、信仰の自由をめぐる言動で注目を集め、20世紀の米社会を代表する人物の1人だった。
1942年、カシアス・クレイとして米ケンタッキー州ルイビルで生まれ、12歳カラボクシングを始めた。
60年のローマ五輪で、ライトヘビー級の金メダルを獲得したが、自伝によると、米国への帰国後に黒人であることを理由にレストランで食事の提供を拒まれ、川に投げ捨てたという。
プロ転向後の64年にヘビー級王者に挑戦。
前評判では不利とされたが、、「チョウのように舞い、ハチのように刺す」という言葉通りにソニー・リストンを破り、世界王者となった。
同じころ、黒人指導者のマルコムXらの影響を受けテイスラム教に改宗し、名前をモハメド・アリに改めた。
プロとして無敗のままだった67年、信仰とベトナム戦争への反対を理由に米軍への入隊を拒否。
ボクシングライセンスを剥奪(はくだつ)され、王座も失ったが、「私とベトコンの間に争いはない」との言葉が有名となるなど、世論に影響を与えた。
70年にライセンスを再び取得してリングに復帰。
74年に、当時無敗の世界王者だったジョージ・フォーアマンに勝利し、7年ぶりに王者に返り咲いた。
78年にレォン・スピンクスに敗れたが、同年の再対決で勝ち、3度目の王者となった。
81年の引退後は人道的活動に力を入れ、国連の「平和大使」にも指名されたが、パーキンソン病を発症し、次第に活動が難しくなった。
96年のアトランタ五輪では、病気の影響で手が震えながら、聖火点灯の大役を果たした近年は体調が優れず、入院を繰り返していた。
(ダラス=中井大助)
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20160605の朝日新聞朝刊から。
信念の拳 世界を揺るがした
モハメド・アリさん死去
プロボクシングの元ヘビー級王者、モハメド・アリさんが3日、米アリゾナ州の病院で死去した。
74歳だった。
家族の代理人によると、「32年間にわたルパーキンソン病との闘病の末」だった。
オバマ米大統領が「モハメド・アリは世界を揺るがした。
そして、それによって世界はより良い場所になった」と声明を出すなど、その死を悼む声が広がっている。
オバマ氏は声明で、自らの書斎にアリのグローブと写真を飾っていることを明らかにした。
ベトナム戦争への反対や信仰を理由に米軍への入隊を拒否して王座を失っても立場を貫き、やがて復帰して勝利したことが「(より多様な)今日の米国に私たちを慣れさせてくれた」と述べた。
1996年にアリさんが聖火を点灯した米アトランタ五輪の際の大統領ダッタクリントン氏も、「栄光と試練を通じて、その伝説よりさらに偉大になった男性と、友情を築けて光栄だった」との声明を発表。
映画監督や歌手、政治家ら著名人が相次いで追悼の声明を出している。
アリさんは42年、米ケンタッキー州ルイビルで生まれ、旧名はカシアス・クレイ。
60年のローマ五輪でライトヘビー級の金メダル獲得したが、自伝では、帰国後に黒人であることを理由にレストランで食事の提供を拒まれ、メダルを川に投げ捨てたとしている。
プロ転向後の64年、「チョウのように舞い、ハチのように刺す」という言葉通りの闘いぶりでソニー・リストンを破り、ヘビー級の世界王者に。
同じころ、黒人指導者のマルコムⅩらの影響を受けてイスラム教に改宗し、名前もモハメド・アリに改めた。
67年、ベトナク戦争への反対などから米軍入隊を拒否して王座を剥奪(はくだつ)されたが、「私とベトコンの間に争いはない」と述べるなど、世論に影響を与えた。
70年にリングに復帰すると、74年にジョージ・フォアマンに勝って7年ぶりに王者に返り咲く。
81年の引退後は人道的活動に力を入れたが、パーキンソン病の影響で次第に活動が難しくなった。
(ダラス=中井大助)
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アリ逝く 伝説残し
チョウのように舞い、ハチのように刺す
速く華麗な技 挑発の元祖
「均整の取れたアスリートという印象だった」。
国際的マッチメーカーのジョー小泉氏は、1974年にアリが来日した時、公開練習で見た肉体が脳裏に残っている。
「チョウのように舞い、ハチのように刺す」と評されたアリのボクシング。
スピードとテクニックを追求するスタイルは、ヘビー級では異端だった。
「強いパンチを打ち込み合う力比べが当たり前だったヘビー級で、華麗なフットワークとスピードのあるパンチ、鋭いジャブを使うボクシングを後世に残した」と小泉氏。
74年に2度目の王座に返り咲いた「キンシャサの奇跡」を旧ザイール(現コンゴ民主共和国)で取材したボクシング専門誌元編集長の前田衷氏も「相手に打たせずに打つという軽量級のボクシングをあの時代に持ち込んだのは新鮮で、驚異的だった」と振り返る。
アリはリング外でも、それまでのボクサーにナカッタスタイルを持ち込んだ。
試合前の記者会見でのパフォーマンスだ。
「ボクサーは拳で戦うのであり、口で戦うのではないといわれた時代に、プロモーターに任せられていた興行面を自らが盛り上げた」と前田氏は解説する。
例えば、試合前の挑発。KOラウンドの予告のほか、ジョージ・フォアマンをミイラ、ジョー・フレイジャーをゴリラに例えた。
「テレビが発達した時代。映像を利用して自分を売り込む戦略を使った」と小泉氏。
日本ボクシングでは亀田兄弟の挑発が記憶に新しいが、元をたどればアリだった。
(編集委員・中小路徹)
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同時代にいてくれた
元世界2階級王者の原田政彦氏
「(アリは)常に話題を振りまき影響力もあった。モハメド・アリという存在があったので、私も世界王者として広く認めてもらえたと思う。1歳年上のアリが、同じ時代にいてくれたことに感謝したい
元WBAライトフライ級王者の具志堅用高氏
「ボクシングを始めた頃の英雄だった。プロの本当の面白さを教えてくれた。フットワークと、相手のパンチをもらわないところはすごいと思った。今のヘビー級にあのような選手はいない」
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「最も大切な一部 逝ってしまった」
フォアマン、別れの言葉
ツイッター上では、ボクシング界のかってのスターたちがアリの死を悼んだ。
「キンシャサの奇跡」でアリと死闘を繰り広げた67歳ノジョージ・フォアマン(米)は「自分のなかで、最も大切な一部が逝ってしまった」と書き込んだ。元ヘビー級統一王者のマイク・タイソン(米)は「神がチャンピオンを迎えに来た。偉大なる王者よ、さようなら」と別れの言葉を贈った。
プロボクシングで49戦全勝、世界5階級を制覇し、昨年引退したフロイド・メイウェザー(米)は「私の心は、先駆者であり、本物の伝説であり、ヒーローである彼とともにある」。世界6階級制覇を果たしたマニー・パッキャオ(フィリピン)は「我々は今日、偉人を失った。私の心と祈りは、アリの家族とともにある。彼らに神のご加護があらんことを」と書き記した。
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1968年2月、米シカゴで開かれた黒人ムスリム大会で話すモハメド・アリさん=AP
人種の平等 訴え続ける
アリさん死去
政治的発言 最後まで
3日に死去した、ボクシングの元世界王者モハメド・アリさんはスポーツ・イラストレイテッド誌が「20世紀最高のスポーツマン」に選ぶなど、米国のスポーツ選手でも突出した存在感を持っていた。1960年代には言動が米世論を二分することもあったが、後年は全米の尊敬を集めた。
最初に大きく米社会に波紋を起こしたのは、ヘビー級世界王者になった64年。イスラム教へ改宗し、名前も改めた。米メディアの多くは以前の名前の「カシアス・クレイ」を使い続けたが、アリさんは「それは奴隷の名前で、私はもう奴隷ではない」と反発。黒人への差別についても強く発言するようになった。
67年には、ベトナム戦争への反対と信仰を理由に米軍への入隊を拒否し、王座を剥奪される。
だが、ベトナム戦争への反対が広がるなか、アリさんの姿勢も支持を集めるようになる。
ボクシングから離れていた間は全米の大学をまわり、講演で人種の平等などを訴えた。徴兵拒否の罪で起訴され、一、二審では禁錮5年の実刑判決を言い渡されたが、最高裁まで争い、71年には、「良心的拒否を認めない理由が明示されなかった」として有罪が翻された。
70年にリングに復帰した後はスポーツ選手としての実績に加え、信念を通した姿勢が米国でも評価されるようになった。74年に「キンシャサの奇跡」と呼ばれた一戦で世界王者に返り咲くと、初めてホワイトハウスに招かれた。
引退後はパーキンソン病との闘いが始まったが、96年のアトランタ五輪で手を震わせながらも聖火を点灯する場面は感動を呼び、死去を伝えるニュースでも何度も流れている。2005年には、米国の民間人に対する最高勲章である大統領自由勲章を授与された。
症状もあり、かってのような鋭い言葉を発することはなくなったが、政治的な発信は最後まで続けた。共和党の大統領候補に名乗りを上げていたドナルド・トランプ氏が昨年に、イスラム教徒の米国への入国禁止を打ち出した際には「イスラム教徒として、自らの利益を得るためにイスラム教を利用する人に立ち向かわなければならない」との声明を米メディアに発表していた。
トランプ氏は「本当に偉大なチャンピオンであり素晴らしい人間だった」とツイッターで追随した。
(ダラス=中井大助)
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世紀の異種戦
心躍った
アリさん死去
猪木さん「人生戦い抜いた友」
伝説のボクサー、モハメド・アリさんが3日、亡くなった。生前、日本人格闘家と相まみえた一戦がる。1976年に東京・日本武道館で行われた元プロレスラーのアントニオ猪木さん(73)との異種格闘技戦。前代未聞のイベントは国民的な注目を集めた。
「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた2人の試合。ファイトマネーは、アリーさんが18億円、猪木さんが6億円と破格だった。
プロレスファンで知られる直木賞作家の村松友視さん(76)は、「スポーツと見られていなかったプロレス界の男と、五輪金メダルをとった世界一のボクサーが試合をする。八百長で引き分けになるのではという見方もあり、一気に興味が膨れあがった」と振り返る。
試合は、猪木さんがリングに寝転がったまま蹴り繰り返し、アリさんもパンチではなく足蹴りで応酬。終盤には猪木さんがタックルを決め、アリさんが左ストレートを食らわす場面もあったが、結果は引き分け。
「メディアでは世紀の凡戦という評価。でも、互いの武器が違う中で隙を探りあった緊張感のある試合だった。それぞれの世界を背負った真剣勝負だった」と村松さん。テレビの視聴率は40%に迫った。
猪木さんは4日夕、都内で開いた会見に、黒色のネクタイとマフラー姿で現れた。「後にアリは『あんなに怖い試合はなかった』と言っていた。俺にも緊張と興奮、そして怖さがあった。お互いあれでよかったんだと認め合った」。26日、伝説の一戦から40年を迎える。「できれば日本にきて欲しかった」と惜しみながら、「人生を戦い抜いた友として冥福をお祈りしたい」と結んだ。
(菅沼遼)
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モハメド・アリさんの歩み
1942年 米ケンタッキー州ルイビルに生まれる
1960年 ローマ五輪のボクシングライトヘビー級で金メダル
1964年 世界ヘビー級王者に。
イスラヌ教への改宗を発表
1967年 ベトナム戦争への徴兵拒否で有罪判決を受け、タイトル剥奪
1972年 初来日し、マック・フォスターに判定勝ち
1974年 ジョージ・フォアマンにKO勝ちする「キンシャサの奇跡」で、
2度目のヘビー級王座に返り咲き
1976年 再来日。プロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」、
を戦い、引き分ける
1978年 レオン・スビンクスに王座を奪われるが、
スビンクスとの再戦で3度目の王座獲得
1981年 引退
1996年 アトランタ五輪で聖火を点灯
2009年 オバマ大統領の就任式に出席
2016年 6月3日 死去
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「私のヒーロー」 「勇気忘れない」
世界の著名人ら
1974年、王者フォアマン(手前)を倒したアリ。
「キンシャサの奇跡」と呼ばれた=AP
1996年アトランタ五輪の開会式で聖火を持つモハメド・アリさん=ロイター
モハメド・アリさんお死去を米メディアはトップニュースで伝えている。ニューヨーク・タイムズは「ボクシングと20世紀の巨人」と表現。ウォールストーリート・ジャーナルは自由な言論や社会の変革を掲げた姿勢を評価し、「スポーツ界において比類のない功績を残した」と記した。
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20160605
朝日新聞/天声人語
プロボクシングの人気者になった黒人青年が、名前をカシアス・クレイから、イスラム風のモハメド・アリに変えた。白人優位を批判するイスラム教のグループの影響を受けて、改宗していた。奴隷にされた先祖が所有者から与えられた名前を返上する意味もあった。
改名は、強い批判にさらされる。彼は後に、作家のトマス・ハウザー氏に悔しそうに語っている。「もし俺が白人の思うようなもっとアメリカ的な名前が欲しくてーーーースミスとかジョーンズとかに改名したなら、誰も文句はつけなかったろうよ」。
74歳で亡くなったモハメド・アリ氏は、間違いなくアメリカの英雄であった。弾むようなフットワークと鋭いパンチで観衆を魅了し、みたび王座に就いた。しかしその生涯は、自分の国との距離を測りかねていたように見える。
アマチュア時代の1960年、ローマ五輪で金メダルに輝いた。誇らしく帰国したものの、レストランでは「黒人はおことわり」と言われた。屈辱と衝撃と孤独を感じたと、自伝にある。
ベトナム戦争に反対して徴兵を拒否し、王座を剥奪された。人びとが無益に死んでいくのが耐えられなかった、と後に語っている。 「すべての人が考えるべき抵抗だったーーー自由とは自分の信念を守ることができるということだ」。
アリ氏はかって、試合相手をこきおろす弁舌で知られた。それは社会や政治にも向けられた。もう一つの重く鋭いパンチを、アメリカはどれだけ真摯に受け止めてきただろうか。