2017年5月12日金曜日

春の嵐


2017年のゴールデンウイーク、4月29日から5月5日まで、この1週間の読書にヘルマン・ヘッセの「春の嵐」を選んだ。原題は、主人公・クーンが想う女性「ゲルトルート」。
舞台は19世紀末のドイツ。
ヘッセ33歳の1910年に発表した。
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唐突にこのような本を話題に出すとは、青天白日? 雨後晴天?
語彙の使い違いか? ちょっと可笑しいか。
今の私、健康に恵まれているが、年老いた妻の母の面倒を観ることになって、外出することはできない。ならば、室内での贅沢にするかと決めた。
この「春の嵐」は高円寺駅南口の古本屋さんで、大学4年生の時に買った。
彼女のアパートからの往還は定かではない。現在の妻だ。今から46年程前。

大学時代はサッカー部。優秀な学生が集まってきた。
全国のサッカー有名校から、並み外れたサッカー餓鬼だ。
4年生、技術、体力に苦労はしていたけれど、やっとのことで、何とか試合に出してもらえるほど腕を上げていた。
そんな私の青春糞まみれ!時代だ。
粗筋の文章では、「春の嵐」/訳=高橋健二の中のものを随時大いに使わせもらった。

ちょっとした3年前の事故で脳に傷を負ってしまってから、何もかもいじけてしまった私なのだ。
それでも読書欲だけは、上手く理解できないけれど、しつこい。
高橋和巳を読み太宰治、坂口安吾、織田作之助、田中英光を読み、次に目をつけたのは、この「春の嵐」だった。

恋愛小説を読みたかった。
でも、文学をよく理解できなかったのだろう!! そんなに面白いとは思わなかった。
それよりも、小説を文学として良く読みきれていなかったのだろう。

ところで書名の「春の嵐」とは何じゃ、と思った。
これも、悔しいけれどネットで調べさせてもらった。
4月から5月にかけての時期、急速に暖かくなって過ごしやすくなった頃、冷たい空気と暖かい空気がぶつかりあって、巨大な低気圧を発生させることがある。
この際に台風並みの強風や暴風が発生する。
これらの気候の状態のことだそうだ。


★粗筋
避けがたい身の上、苦しい運命に自覚をもって、よいことも悪いことも十分味わいつくし、偶然的なこともあるだろうが、思わぬ運命を獲得することがある。
このようなことが、人生に対して、貧しくも悪くもなかった。
これこそが、人生なのだ。

頭章では、クーンの回想からはじめられるこの物語は、彼が左足の複雑骨折とたたかいながら、自分の芸術と人生をいかにして可能にしていったか、その過程である。

クーンは、6、7歳のころから「目に見えぬ力のうちに、音楽によって最も強くとらえられ、支配されるように生まれついていることを知った」。
学校を終えて音楽学校に学んだ。
ところがどうしたことか音楽に身が入らない。
最終学年に、好きな女友だちにそそのかされた彼は、急な斜面を橇(そり)で落下し、木に激突、左足を骨折したのだ。結果、足はビッコを引きながらでないと歩けない。

本では、一生「かけることも踊ることも」できない障害を負うことになり、それからが自分の「内的な本来の運命」とある。

学校に復帰した彼は、彼の音楽を強く支持するオペラの名歌手・ムオトの知遇を受け、1年後、彼はムオトの推薦によりR市の歌劇団にバイオリニストの職を得る。
彼はムオトとの交流のなかで、少しずつ創作をすすめ、音楽家として世に認められるようになる。
作曲家としてだ。

何よりも音楽愛好家の娘、ゲルトルートとの出会いによって、彼は「春の嵐」を経験し、愛と仕事、音楽と生活のるつぼで身を焼きながら、オペラの作曲をすすめる。
ところが、そのゲルトルートは、彼の兄貴分のムオトと結ばれることになり、絶望した彼はついに自殺を決意する。

ところがその実行の日「チチキトク ハハ」の電報によって、彼の自殺は未遂に終わる。彼は運命に大きくゆさぶられながらも、作曲家として世に認められ、物語は、後年、未亡人となったゲルトルートと、友情をあたためあい、歌やソナタを作曲していく日々を描いて、静かに幕となる。

ヘルマン・ヘッセは、作品のなかで弱者・障害者などに対し、つねにあたたかい目を注ぎ、作品を書いている。

音楽家をこころざすクーンは、すでに20歳をこえている。
不慮の事故のために、彼は長い療養生活を経験する。
彼はそれを、自分は青春をむざんに切断され、見るかげもなくされてしまったが、これは自然が自分にとって必要な「休息をとらせた」のだと悟っていく。

自分は「音楽をやること」以外には生きる道のないことを自覚する。こうして彼は「不具となった足もたいしたことではないとさえ思えるまでに回復していく。

しかし、彼は以後、事あるごとに自分の肢体障害に心乱される。
療養生活を終えて故郷に帰った時もそうだった。彼は再び外出もできず、憂うつのなかに落ちこんでいく。

それをいやしたのは「ひとり旅」であり、「自然」だ。
彼は「静かな貧しい村のたった1軒の小さい宿屋」に泊り、孤独のなかで親しく自然に触れ、憩う。
高地での数週間は一生のもっとも美しかった時だったと思いだす。

音楽家として世に出た彼は、その評価についても素直に喜べない。
それは社会が、自分をいたわり、自分にあんなに親切にしてくれるのは、自分が哀れな身障者であるからだ、と思った。

それでも、クーンは、障害に負けた生き方をできなかった。
彼はやがて自分の障害を運命として引き受け、そこから新しい人生を切り開いた。

この本の結末の文章に、「われわれ人間の中には、親切と理性が存在する」し、「私たちはたとえ短いあいだだけであるにせよ、自然や運命より強くありうるのだ」だから「私たちは必要なときには、たがいに近より、たがいに理解する目を見合い、たがいに愛したり、たがいに慰めあって生きることができるのである」とあった。
ヘルマン・ヘッセの強い決意が表現されている。

クーンが芸術家であると同時に、障害を負っていたからこそできたのだ、と、ヘッセは言いたかったのではないでしょうか。