2012年1月24日火曜日

金栗四三氏と村社講平氏

先日朝日新聞で、金栗四三氏がストックホルムオリンピックのマラソン競技に出場して、途中で断念した彼に、オリンピック開催55周年記念式典の式次第のなかにオリンピック委員会が粋な計らいをしたことの記述があり、私は幸せな気分になった

そして、今日(20120124)、車で出勤途中に、ラジオでザトペックと村社講平氏のことを聞いた。ニッポン放送の「朝ラジ」だ。あの人間機関車と言われたザトペックが、幼少の頃、ベルリンのオリンピックスタジアムでの金栗の果敢な激走を観て感激、自ら長距離ランナーを目指し、ベルリンとヘルシンキの2つのオリンピックで不倒の記録を残した。その内容は、下の方で記述した。それから約30年後、日本で是非、自分に感動を与えてくれた村社講平と一緒に走りたいと申し出た。そのとき75歳だった村社講平だが、快諾、5キロを一緒に走った、ということだった。

たまたま、1週間ばかりの期間に、スポーツに関することで、興味ある二つの話に出くわした。やはりこれは、マイファイルに纏めておきたいと思って、次の文章を綴ることにした。スポーツでも、私はサッカー情報には特に鋭敏だけれど、こんないい話は競技種目に、隔たりはない。スポーツやスポーツマンシップが愛されたり、畏敬されたりする所以(ゆえん)だ。

スポーツは素晴らしい、友情はもっと素晴らしい。

これからの殆(ほと)んどの文章は、Wikipediaをそのまま頂戴して、一部、私が書き加えました。感謝。

 

先ずは、金栗四三(かなぐりしそう)さんだ。

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1911年(明治43年)、東京高等師範学校(前は、東京教育大学、現・筑波大学)の2年生の時、翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、マラソン足袋で当時の世界記録を27分縮める大記録を出した。当時の距離は25マイル=40、225キロ。タイムは2時間32分45秒。日本人初のマラソンのオリンピック選手だ。

1912年のストックホルムオリンピックでは、レース途中で日射病で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝であった。マラソン中に行方不明になったのだ。この日、ストックホルムは40度を越す酷暑、そのうえ宿泊先に迎えがこなくて、走って会場に向かった。レース参加の68選手のうち半数は途中棄権、そのうちの1人は翌日亡くなった。

次の1916年のベルリンオリンピックでは代表に選ばれながら、第一次世界大戦勃発により開催中止。1920年のアントワーブオリンピックでは16位、1924年のパリオリンピックでは途中棄権。このように、オリンピックではいい成績を残せなかった。

1920年第1回箱根駅伝が開催される。金栗はこの大会開催のために尽力した。この功績を讃え、箱根駅伝では2004年より、最優秀選手に対しては、金栗四三杯が贈呈されている。

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テープを切る金栗氏

1967年(昭和42年)、スウエーデンのオリンピック委員会から、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待される。ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。記念式典開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくり走って、場内に用意されたゴールテープを切った。この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。54年と8ヶ月6日5時間32分20秒という記録は世界一遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られることは無いだろうと言われている。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントした。

 

次に、村社講平(むらこそこうへい)さんだ。

中央大学在学中(27歳で入学)、31歳の時、1936年にベルリンオリンピックに日本代表として出場。5、000メートルと10、000メートルでともに4位入賞した。身長160センチ、体重50キロ。小さな体で、堂々と先頭を切って力走する村社の姿に、競技場内は騒然とし、「ム・ラ・コ・ソ」の大コールに包まれた。そのベルリンの村社の力走に感銘したチェコスロバキアの少年が、後のエミール・ザトペックであった。

画期的なカメラワークで記録映画の最高傑作と評される、レニ・リーフェンシュタール監督の「民族の祭典」には、この村社の10,000メートル決勝が記録されている。日本から来たひときわ小柄な選手がスタートまもなく先頭に立ち、当時世界一の長距離王国のフィンランドの3選手を従えて、残り1周半までレースを果敢に引っ張った。映画の実況では、「小さな村社がやって来た」「村社リードする」「村社いぜん先頭。フィンランドは二番手」「村社のペースは驚異的」「フインランド勢が一団となり、村社に襲いかかる」

石ころだらけの宮崎の道を、練習相手もなくただ一人走り続けた猛練習が、やがて彼を国内無敵のランナーに育てていった。

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ザトペック

ザトペックと言えば、1948年のロンドンオリンピックでは10,000メートルで金メダル、5,000メートで銀メダル。1952年のヘルシンキオリンピックでは、5,000メートル、10,000メートル、マラソンで金メダル3個を獲得した。長距離3冠王だ。顔をしかめ、喘ぎながら、前かがみに走るスタイルから「人間機関車」と称された。インターバルトレーニングの創始者としても知られている。

プラハの春の際には自由化を求める「二千語宣言」に署名、ソ連のチェコ侵攻後は国内において冷遇される日々が続いた。1989年、民主化により復権した。

1981年多摩ロードレースに出場するために来日した。そのザトペックが、「どうしても村社講平と一緒に走りたい。彼は私を陸上競技の道に進ませてくれた、憧れの人なんだ」と希望したことから、当時75歳であった村社が「そこまで言うなら」と一緒に走ることを快諾、5キロをザトペックとともに走った。