20120108 横浜駅の天理ビル前を、深夜バスで京都に向かった。商品名は、高速ライナー。00:00にスタート。この深夜バス、全てインターネットでの予約制で、新宿ー(横浜ー京都)-大阪を走る。横浜から京都までは片道3400円也。3回のトイレ休憩をして、京都に着いたのが、ぴったり06:00だった。
昭和38年に卒業した京都府、宇治田原町立維孝館中学校の同窓会に出席するためだ。昭和38年は1963年だから、卒業して約50年、ひえぇ~半世紀前のことになる~の~。宴会の場所は宇治、受付は12:00からと聞いていた。
そこで、京都に着いてからのことを考えた。
折角の京都入りだ。それならば、JR奈良線の宇治駅から京都へは何度も乗ったことがあるが、逆に宇治から奈良方面に乗ったことが一度もないので、この機会に、奈良まで足を伸ばすことにしてみようと思いついた。奈良には、法隆寺も、東大寺、薬師寺、浄瑠璃寺もある。何処に行くかは、奈良駅に着いてから考えればいいや、生来の好い加減な性格だ。兎に角、昼までに宇治に着きさえすればいいのだ、天賦?の賜物、5時間をのんびり過ごしたい。
小学生のときにあれ程驚かせてくれた大仏さんに会いたいとも思った。東大寺の大仏さんのことだ。
07:ちょっと過ぎ JR奈良線の京都駅から奈良行きの各駅停車の電車に乗った。宇治駅を過ぎて、私の高校の最寄の駅も過ぎた。木津川と国道24号線に沿って線路は伸びる。単線で、何処かの駅で上りと下りがすれ違った。城陽、山城青谷、木津を過ぎて、奈良駅に着いたのは、約1時間後の8時前だった。
車窓からは、稲の刈り取られた後の水田と黒瓦の屋根の家並みが交互に見えた。小さな集落や大きな集落が、現れては消える。子どもの頃よりよく見慣れた、ありふれた田園風景だ。この沿線は、開発がそれほど進まなかったようだ。宇治や城陽の辺りでは、昭和40年、50年代に分譲された新興住宅街が、ここらで、一度手を加えて欲しそうな家が目立つ。城陽の駅には、五里五里の看板があった。京都から5里、奈良から5里ということだ。
旧奈良駅舎
やっぱり、車中、東大寺へ行くことに決めた。天平(てんぴょう)文化の代表選手だ。正式名称は、華厳宗大本山東大寺だ。
大仏殿
日曜日の早朝なので駅の構内は閑散としていた。駅員は丁寧に東大寺への道を教えてくれた。バスなら5分ぐらいですが、歩くと30分はかかりますよ。正面の階段を下りたところにバス停がありますから、と、懐かしい地元の言葉は、私の耳に心地よい。少し歩いて、今では観光案内所になっている奈良駅の旧駅舎を振り返って見た、なかなか格好良い。そして、ぶらぶら、時間を気にしないで歩いた。見かけたのは、近所の住民が犬の散歩をしている程度で、観光客らしき人は私を入れて数人だけ。
京都の町のことをそれほど詳しくないけれど、生家が京都府の片田舎だったから、何かと訪れる機会があって、親戚もあったから、それなりに京都の街並みは知っている。奈良は、京都に比べて街並みに静寂を維持していることに感心させられた。日本古来の静かさだ。日本の古来の静かさなんて、知らない癖に、知ったかぶりは、良くくありませんが、そんな気がしたのだ。
京都の御所には天皇がいたから、権勢を誇りたがる下品な武士ども、北条時政、時頼、豊臣秀吉、織田信長らの陣営が、江戸時代になってからも徳川家康たちの一派までが、かって静かだった京都を舞台にハシャギ廻った。住民はその度に嫌な思いをした。兵(つわもの)どもの夢の後をあちこちに残した。華美な建物だったり、部屋に残された刀の後だったり。誰もが近づき難い雰囲気の建物や庭園もあることはある。厳かな神社仏閣もある。公家たちも、高級官僚として大いにのさばった。栄華を欲しい侭にやり放題だった。秩序なく混在してしまった。
その結果、それが、いくつかの文化財産を生んだことになり、遺産と言われ、それ目当ての観光客がわんさかわんさかやって来ることになった。それを京都は甘受した。
ところが、奈良の町には、静かに時が流れている。権勢とか、血を血で洗うような血生臭さから遠ざかり、静溢を守ってきたように感じた。
駅でもらったマップ
猿沢池だ。水面に興福寺の五重の塔の影を映すたたずまいは、奈良公園の代表的な景観の一つです、と奈良駅で貰ったマップの一部に書かれていた。小学生の時に見た、その光景が蘇った。私のような者にも記憶があったのだ。今は、何かにつけて酒を飲む癖がついてしまったので、酒を飲むと記憶は極端に薄れる。今まで随分損をしたことになるのか。
興福寺、奈良県庁、奈良国立博物館、春日大社参道入り口、東大寺南大門、東大寺金堂(大仏殿)、四月堂、三月堂、二月堂。そこで折り返して奈良駅に戻った。
鹿が寄り添ってくる。鹿のエサ150円、これはせんべえか?俺だって、腹が減って、何も食ってないんだ、鹿よ、スマン。
東大寺南大門の左右の金剛力士立像は、圧巻だった。見る者を圧倒する。大仏の彫師(仏師)とでもいうのか、運慶、快慶、湛慶らで作った。この3人の名前は受験用に、完全にそらんじている。受験では必須アイテムですぞ。
南大門金剛力士像
実は、俺を奈良まで足を伸ばさせたのは、横浜を暫らく離れてゆっくりしなさいという友人のアドバイスがあったこと、、それにこの金剛力士像と、大仏さんを見たかったことが、頭の隅っこにあったからだ。日本史の大学受験勉強で、培風館が出版していた下村富士男著の「日本史精義」を穴が開くほど、読み込んだ。その本の中で、一番気を許して、眺めていたのがこの金剛力士像と大仏さんだった。
東大寺の大仏殿は、創建から2度消失したが、鎌倉と江戸時代に再建された。今でも世界最大級の木造建築物だそうだ。入場料500円。開基は良弁僧正(ろうべんそうじょう)。りょうべんさんではない。728年(天平元年)に聖武天皇が皇太子供養のため建立した金鐘寺(こんしゅじ)が東大寺の始まり。743年 (天平15年)に聖武天皇が造立を発願した大仏を本尊とする。
大仏殿を前にして、これは、私の今生の見納めになるかもしれん、ここらで、一発写真にでも納まっておかないとイカン。足跡? そんなもんではないが、今、此処にいる証が欲しいと思った。記念写真のことだ。カップルが交代で写真を撮りっこしているのを見つけて、ニコニコ、私が撮りましょうか、と近づき、手を握り合った二人を撮ってやった代わりに、私を撮ってもらった。貴重な冥途の土産? この年になると、そんなことを考えるようになるようだ。
大仏さん
今回の奈良訪問の最大の目的だった大仏さんを早く見たくて、大仏殿に入った。
意外だった。私が小学生のときに、その大きさに吃驚させられたのに、その大きさがそれほど大きく感じないことに、ちょっと気落ちしてしまった。50余年前、子どもの頃、自分の体の小ささから、大仏さんの異常な大きさを驚愕(きょうがく)したのだろう。懐かさが込み上げて来た。横浜で生活することになって、鎌倉長谷の大仏さんを見い、大船の観音さんだって、大船駅を通る度に、電車の車窓から見ている。大きさには慣れっこになってしまったのだろうか。
堂内では、20~30人の僧侶たちが、お経なのか声明(しょうみょう)なのか、大仏さんに向かって、声を合わせて拝んでる最中だった。 実に厳(おごそ)かな雰囲気だ。数少ない参拝者たちは、誰もが手を合わせていた。
私だって、何度も頭を下げた。私には、祈ることが他人以上に多いのだ。
この時期の東大寺となると、東大寺のお水取りを思う。 お水取りが終わったら、間もなく春が来ると言われている。
私の祖母は、60年も70年も前の話だけれど、この時期になると毎年欠かさず、仲間でお水取りに出かけた。祖母が持ち帰った水を料理に使って、目出度く頂いたものだ。祖母の数少ない、娯楽を兼ねた年中行事だった。祖母が、自分で歩けなくなるまで、毎年欠かさず行っていた。水筒に水を入れて持ち帰ってきた。気丈夫な祖母だった。
このお水取りの儀をインターネットの知恵(東大寺の公式WEB)を拝借して、まとめておこう。奈良近辺で生活をした人ならば、必ずこのお水取りの何かに出くわす。テレビなどで放映される映像は、真っ暗闇の中に急に松明(たいまつ)の火が現れ、そのうち大きな建物全体が炎に包まれるもので、一度見た人は記憶から抜けない。
(Wikipediaより)
Wikipedia から、下の文章は頂戴しました。
日常的に使う「お水取り」とは修二会(しゅにえ)のこと。東大寺開山の良弁僧正の高弟・実忠和尚(かしょう)が創始以来、「不退の行」として、平成23年(2011)には1260回、途絶えたことがない。修二会の正式名称は、十一面悔過(けか)。我々が日常犯しているさまざまな過ちを二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で懺悔することを意味する。
修二会の二は旧暦の二月のこと。天災や疫病や反乱は国家の病気と考えられ、そうした病気を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽、人々の幸福を祈った。
3月1日より2週間にわたって行われる。3月12日の深夜には「お水取り」、若狭井(わかさい)という井戸から観音様にお供えするお香水(こうずい)を汲み上げる儀式が行われる。この行を勤める練行衆(れんごしゅう)の道明かりとして、夜毎、大きな松明(たいまつ)に火が灯される。
腹が減ったので、地元のスーパーで小さなアンパン4個入りを食った。100円。10時を過ぎていたことになる。銀行のATMで、今日の同窓会の参加費を下ろした。
参道なのだろう、その商店街では、今ではもう見られなくなっている専門の小売店が、しっかり店が営まれていることに気づいた。豆屋、下駄屋、着物屋、筆屋、漬物屋、茶器屋、そんな店の合間合間に土産物屋さんがある。アンパンを食って、かえって食欲を刺激してしまったようだが、後2時間もすれば、ご馳走が待っているというのに。蕎麦でも食うか? いや無駄遣いは禁物とばかりに、缶ビールを飲んでしのぐことにするか、と思案する前にプッシュ、だ。どっちが無駄遣いだったのだろうか。
奈良駅前広場のベンチに座って、街の様子をぼんやり眺めて時間を過ごした。1時間ばかり。日差しが暖かく、風もなく、睡眠不足もあって、うとうとまどろみかけていた。
缶ビールの酔いが身に沁みて気持ちいい。私のこれからの人生、考えると不安になることもある。その不安を紛らすために、奈良でのんびりすることだったのではないのか。
11:07発 JR奈良線、京都行き快速に乗った。朝来たところを戻って、宇治駅に着いたのは、11:45。集合時間にドンぴしゃ。
同窓会の会場の料亭の送迎バスが待っていてくれた。駆け足で乗り込んだ。懐かしい面々と思い出せなく腐心している輩(やから)の視線が、一瞬、私の赤い顔に注がれた。俺は、皆さんお久しぶりですと、誰彼ともなく頭を深く下げた。馬がいて、シュンちゃんがいて、塚がいた。幹事の森ちゃんが、よく来てくれたと言ってくれた。
いざ、同窓会だ。卒業して50年目、私にとっては40年ぶりの出席だ。