2009年12月10日木曜日

太宰はやっぱり、嘘つきの天才だった

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学生時代、太宰の小説を古本屋さんに出回っているものなら、なんでもかんでも読み漁っていた。貧乏学生だったので、新刊本は買えなかった。そして昭和48年、24歳で某電鉄系の親会社に入社して、初任給を貰えたら、一番に買うぞと決めていたのが筑摩書房の太宰治全集全12巻(昭和46年、新刊として発行)だった。新品全巻で1万円ぐらいだった。活字が大きくて読みやすかった。初任給が5万5千円、手取りが4万8千円。本屋さんから、届きましたから取りに来てくださいと連絡を受け、財布を持たない私は、お金を裸で握り締めて向かった。本を受け取り、代金を誇らしげに支払った。本は重かった、心は晴れ晴れだった。何だか、自分が成長したような気分になれて嬉しかった。

当時、太宰のどの小説も何度も読み返していた。そのなかで、「津軽」は別格だった。太宰の作品のなかで、一番好きなのがこの「津軽」だ。太宰が、30年ぶりに乳母だったたけを訪ねて行く。探しあぐねて、やっと孫(?、子どもじゃなかったと思っているのですが、かん違いかも)が通っていた国民学校の運動会の会場で再会するのですが、この場面で私はいつも金縛りになってしまうのです。

「津軽」のクライマックスの舞台は、陽が燦燦(さんさん)と照りつける運動会の会場で、健康色に彩(いろど)られ、久しぶりに会った太宰と乳母、お互いに会いたくて会いたくて、晴れやかで、自然で、屈折のない交情、純粋で崇高な愛、そんな愛に溢れた状況だった。

作家は物語を創作するものだとは、よくよく理解しているのですが、私小説風に書かれているものだから、ついつい太宰の本当の本当のことを、本当のことだから尚更具体性を伴って、文学的に素晴らしい作品になっているのだ、と思っていた。昨日まで、たけさんと再会した時の状況は、本に書かれたそのものだったと、思ってきた。

ところがじゃ、実際は本に書かれたのとは、随分違ったようだ。その内容については、後の方の新聞記事に委(ゆだ)ねる。虚構という字を好んでよく使った太宰さんに、私は立派に騙(だま)されていたことが、今日の新聞記事で、知った。やっぱり、太宰は天才だったんだと、再発見させられた、ニンマリ、にんまり。こんなに、ころりんと騙される幸せもあるんだ。太宰のことが、ますます憎たらしいほど好きになっていく。

昨日〈20091209〉、太宰治全集で「津軽」を走り読みした。最後の最後のところで、太宰は嘘をつきました、と告白している文章があった。私には、そこまで読解できていなかったようだ。その部分をここに転記しておこう。---《まだまだ書きたい事が、あれこれあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。》 最後にきて、付け足しのように虚飾を行わなかったなんて、言わなくてもいいことを敢えて言っているのは、私は虚飾を行いましたってことだったんだ。どこまでも、憎めない作家だ。

☆新聞記事を丸ごと転載させていただいた。

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以下、20091208 朝日新聞夕刊 

ニッポン 人・脈・記 漢字の森深く⑩

太宰はこの字を追った

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太宰治は今も人気作家だ。生誕100年を迎えた今年は、漢字検定ならぬ「太宰治検定」までできた。

こんな問題がある。

〈私には、また別の専門科目があるのだ、世人は仮にその科目を「  」と呼んでいる〉

空欄に入るのは漢字1文字。出典は「津軽」だ。戦時中に故郷の青森県を旅してつづられた小説で、代表作の一つとなる。この「専門科目」について〈人の心と人の心の触れ合いを研究する科目〉とも書いている。

答えは「愛」。

「津軽」の最後で、太宰は子守のたけと再会する。愛という字を太宰流に描けばこうなる、という屈指の名場面だ。

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越野タケ

たけは本名越野タケ。大地主だった太宰の生家へ13歳で奉公した。幼い太宰をかわいがり、深い影響を与える。嫁いでから11人の子を産んだ。

小説で太宰は、たけを探しあぐねた末に国民学校の運動会で見つけ、〈生まれてはじめて心の平和を体験した〉。一緒に行った竜神様の桜の下で、たけが語る。〈お前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮らしていた〉

太宰と同郷の文芸評論家相馬正一(80)は戦時の勤労動員で結核を患った。「このまま死ぬのか」。戦後、太宰の「人間失格」を読み、心をつかまれる。

高校教師をしながら太宰研究に打ち込み、のちに優れた評伝で名をなす。タケに何度も会い、思い出話を聞いた。

「あの有名な場面がほとんど虚構と知った時は、いや、本当にびっくりしました」

太宰は再会した国民学校で、実はタケそっちのけで知り合いの住職に酒をふるまわれていたという。竜神様でもタケと言葉をかわしていない。

相馬はこの住職からも再会の表情を明かされ、こう考えた。

「太宰は母にかわいがられなかった。タケさんの姿を借りて育ての親という像を作り、安心立命を得たかったのでしょう。再会シーンは願望なのです。愛をめぐる虚構の天才ですね」

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「津軽」が書かれたころ、太宰に恋している女性がいた。戦後の小説「斜陽」の執筆を助ける太田静子だ。太宰が1948年に別の女性と入水する7ヶ月前、太宰の娘、のちの作家太田治子(62)を産む。

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太田治子

治子もタケに会っている。大学生だった66年、太宰を取り上げたテレビ番組の仕事で津軽を旅した。相馬が親切に案内してくれた。68歳のタケは、悲しいくらい腰が曲がっていた。

「あんた、わしの孫だ」

手をつかまれた。「その力の強かったこと。それでいて、浜辺に咲くハマナスの花のように上品なおばあちゃんでした」

治子は自宅に帰って泣いた。

「ママ、私、生きていてよかった」。出生のことで悩んでいた自分を、太宰ゆかりの人たちが温かく迎え入れてくれたから。

「津軽」は太宰文学のなかでも治子の好きな作品の一つだ。

「タケさんと再会する場面にフィクションはあっても、父の心にうそはありません」

タケは上京して、太宰の墓参りをしたことがある。再会した時と同じアヤメ模様の紺の帯を締めて。83年に85歳で亡くなり、今月15日が命日になる。

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治子は1枚の和紙を大切にしている。自分が生まれた時、太宰が名前の1字を取って名付け、したためてくれた。

〈この子は私の可愛い子で、父をいつでも誇ってすこやかに育つことを念じている〉

この肉筆に見る愛の字は、柔らかく、かわいらしい。

治子は今年9月、「明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子」を著した。母の日記を読み、2人の愛と向き合う日々。心は重くなったが、やっと父と母のありのままの姿を見つめることができた。これからは、詩人金子みすずの詩のように、明るい方へ生きていこうと思う。

一つの漢字に、たくさんの物語がやどっている。その森は深く、人を魅了してやまない。

(このシリーズは文を編集委員・白石明彦、写真を八重樫信之が担当しました。文中敬称略)