20091224 19:00
第27回クリスマス公演
『銀河鉄道の夜』・・ケンタウルス つゆを降らせ
ブレヒトの芝居小屋
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宮沢賢治=作
広渡常敏=脚本・演出
林光=音楽
文化庁「地域文化芸術振興プラン」事業
東京演劇アンサンブル・・第27回クリスマス公演
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今年も、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に行ってきた。東京アンサンブルからお知らせをいただいた時、もうそんな時季になってしまったのかと驚いた。
舞台監督の入江龍太氏に会えて、久しぶりに話す機会ができてよかった。容貌は、おやじ(入江洋祐)そっくりになってきた。次回は君のことを可愛がった西田英生を連れて来るからね、と約束した。是非、「桜の森の満開の下」がいいできばえなので見に来て欲しいとたのまれた。
昨年は一人で観に行った。一昨年は、社員全員と友人達で1ステージを貸切にしていただいた。その前にも6、7回は観ているのですが、毎年、一部に演出の変更を試みて演じられるのも、楽しみの一つでもあるのです。
ケンタウルス祭の夜、ジョバンニは不思議な旅をする。私も無理やり、そう無理やり(槍)だ、この旅に同行させてもらうことにした。
今年の仕事はほとんど終えた。事実、肝心要の問題は、処理仕切れてはいないのです。まだまだやらなくてはならない仕事を、本当は残しているんだけれども。
まあ、いいか!!っと、私も、宮沢賢治の幻想四次元の空間へ、ジョバンニとともに旅立った。
銀河の夜を走る軽便鉄道のかなたに走り出した。ここからが私が一番お気に入りの世界なのだ。
人間の愛の愛が、歴史の歴史が、友情、母や父に対する愛、犠牲愛、自然界に存する万物に対する愛の愛がーーーーーそして生命の生命が、燃えているかもしれない。化石が、夢や歴史を歌う。
真(まこと)の幸〈さち〉は、何所に、どのように、あるのでしょうか。
私の会社の会社が、仕事仲間の仕事仲間が、苦しくて堪らないことの苦しくて堪らないことが、なんだ、そんなにちっちゃな問題かと思われることの、なんだ、そんなにちっちゃな問題かと思われることが。
現実世界は、銀河の夜のかなたに広がる世界の世界の影らしいのだがーー。
私には、まだ銀河の底で、真っ赤に燃えるさそりや、さそりの歌が解らない。
カンパネルラが友の犠牲になって、死んだ。
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ほんとうにこんな、さそりざの勇士だの、空にぎっしりいるだろうか。
ああ、ぼくはその中を、どこまでも、どこまでも、歩いてみたい。
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広渡常敏
宮沢賢治の〈不完全な幻想四次元〉世界では、人々の願いや祈りによって世界が変化する。思いが実現するのだ。そして銀河鉄道の夜の彼方の四次元世界に〈おかあさんのおかあさん〉がいらっしゃる。三次元現実の〈おかあさんは病気で、ジョバンニの牛乳を待っていらっしゃる。四次元世界の〈歴史の歴史〉は三次元現実では〈歴史〉となる。どうやら幻想四次元の投影として三次元現実があるらしい。さながらマルセル・デュシャンの投影図法のようである。もしーー三次元現実の人々の願いや祈りが、銀河の彼方の幻想四次元の世界に届くならば、不動とも思われる現実も変化することができるかもしれない。このような祈りにも似たユーモラスで稚気あふれる世界像が、「銀河鉄道の夜」の基軸構造である。
檜の真っ黒に並んだ坂の道で立派に光って立っている電灯の下に自転車のスポークのように四方に伸びているジョバンニの影たち(二次元)。それらの影が地面から起き上がって(三次元となって)ジョバンニを取り囲む。ジョバンニは二次元から四次元へ出発することになる。銀河ステーションに夜の軽便鉄道の音が近づいてくるのだ。
(今年のパンフレットの中の文章より)
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ブレヒトの芝居小屋で、今年は何回目の「銀河鉄道の夜」になるのだろうか。8?、9回目か、私の頭の中もファンタジ-? よくわからなくなりました。
東京演劇アンサンブルのブレヒトの芝居小屋に行く度に、観客席から「銀河鉄道の夜」を読んだんだけれど、なかなか解りづらくて、あなたは、よく解った? などと観客席から声が漏れてくるのです。必ず、毎年のことです。お互いに、うかぬ表情で、にらめっこしながら、自分流の解釈を交わしている。それほど、この本は奥深く、哲学的で、幻想的で、愉快なのです。
20091129の朝日新聞です。
「重松 清さんと読む 百年読書会」で12月の本として宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を取り上げられていた。スクラップにして保存してあった。
その記事をダイジェストで転載させていただく。
この本についての各人各様の読後感想の違いを大いに、さらして見せてくれた。この読後感想の一つ一つが、私のこれまでの過去に感じたことと相通じることがあって余りにも可笑しかった。やっぱり私も、初めて読んだときはさっぱりつかみどころがなかった。そして、1回、2回読んだが、解らなかった。東京演劇アンサンブルの広渡常敏さんの脚本演出による「銀河鉄道の夜」を観ても、未だに全てが理解できていないのです。含蓄があり過ぎて、またまた、来年も観に行くことになるのでしょう。
母の母が、愛の愛がーーー、これは理解したのですが、、、、。
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20091129の朝日新聞より
まずは再読組の投稿を拝読していると、面白いことに気がつきました。宮沢賢治自身の夭折(ようせつ)もあってか、「青春時代の愛読書」として名高い本作ですが、じつは読み手が年齢を重ねることで感じ取れる奥行きがたっぷりありそうなのです。
茨城県の坂さんが「子供の頃は透明で壮大なファンタジーとして好きでしたが、40代を目前とする年齢になった今強く感じるのは、人が生きる哀(かな)しみと美しさです」と言えば、兵庫県の高さんは「20歳で読んだときには理解不能だったが、60歳を過ぎて読み返してみると、これは童話というより高度な哲学書ではないかと思った」、さらに福岡県の長さんは「血気盛んな若い頃には2ページも読み進められなかったが、今は一気に読んだ」---。
一方、若い世代の初読組・神奈川県の神さんは、「僕は賢治と相性がよくないかもしれない」と率直な感想を打ち明けて、こう続けて言いました。「鉄道に乗ってどこまでも行くという感覚を、現代に生きる僕たちは感じづらくなっているのではないでしょうか?」-なるほど「夜汽車」が死後になりつつある時代、むしろアニメの「銀河鉄道999」を思い浮かべた方が作品に近づけるということもあるのかも。
実際、詩情豊かなイメージをふんだんにちりばめた作品だけに、その世界を共有できるかどうかが感想の賛否の分水嶺になっている様子です。
「三度読み返したが、何が書いてあったのかさっぱりわからないし、イメージを結ぶことがまったくできなかった」東京都の宮さん。
「何度も読んだが、ヒントどころかとりつく島もないというのが正直なところである」東京都の木さん。
ただし、それは決して作品そのものへの反発や否定にはなっていません。宮さんは「皆様の投稿を読むことで学んでみよう」、木さんも「今回は自分のコメントはお手上げ。参加者各位のコメントを楽しみにさせていただく」--これぞ読書会の醍醐味であると同時に、作品に対する優しさや謙虚さが、すでにして宮沢賢治の世界に無意識のうちに包み込まれている証なのでは、とも思わされます。
東京都のほわさんの投稿は、冒頭に「なんて歩きにくい」とありました。てっきり批判のコメントだろうかと思っていたら、さにあらず。
「すごく濃密な文章、そして、鬱蒼(うっそう)としたイメージ。子ども向きとも思われるのに、その内容の濃さ。現代の小説は、これに比べたら草原をスーッと通り抜けてしまうようなもの。
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1992
広渡常敏 「銀河鉄道の夜を旅する」
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野をわたる風の音に耳を傾けて、いのちのよろこびを感じない人がいるだろうか。小鳥のさえずりを聴いてわからないという人がいるだろうか。銀河鉄道の夜を旅する人々には耳をすますとつるの声、さぎの鳴き声がきこえるし、プリオシンの岸辺に埋もれている化石のうたう声もきこえてくる。じっさい、宮沢賢治は林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりや、かしわばやしの青い夕方の風からもらった話を童話に書いたのであった。賢治のイーハトーブはこのようにしてつくりだされた。
だが宮沢賢治がおもい描いたイーハトーブの夢とは、まったくちがったかたちで歴史はすすんだ。西欧的近代科学はじぶんに適合しないものを切り捨て、排除して、近代化、工業化、都市化はほとんど行きつくところまで行きついた。歴史が排除し切り捨てたものたちの歴史だとするならば、排除され切捨てられたものたちの歴史はどこにどのように息づいているのだろうか。賢治にならってぼくらも路傍の石や並木やベンチや、とり残された路面電車や高層ビルや、曇り空を吹く風やパラボラ・アンテナを眺めて、そこからどんな話をもらうことができるだろうか。ぼくらはイルカのことばがわからないように、眼の前の木や草がぼくらに語りかけているにちがいないことばが、ぼくらにはわからない。たいへん便利なオート・カメラが発達したおかげで、眼前の風景に向かってぼくらはパチリとシャッターを押すだけだ。こうしてぼくらは風景から話をききとることができなくなっている。人間から”ものがたり”をつくる能力が奪い取られようとしている。エンピツ削り器のおかげでぼくらの手は、ナイフでエンピツをきれいに削る能力をなくしている。じぶんの手がエンピツをきれいに削れないんだと感じとる感覚さえ、ぼくらから消し去られようとしている。高度に発達した工業化社会は、経験を必要としない社会なのだ。熟練労働はいまでは家庭の台所にだけ残されている。いや、その台所さえ、経験が消去されようとしている。いまではおふくろの味はカップラーメンなのだ。
このあいだ、といってももう去年のことになるが、京都梅小路の蒸気機関車の操車場跡で「銀河鉄道の夜」を上演した。巨大な鉄の塊のようなSLが入線してくると、転轍機が鳴り、円形の転車台が軋む。ジョバンニやカンパネルラたちを乗せた台車があらわれると、見物席にざわめきがひろがった。
ーーー此処はいまは博物館だ。過ぎ去った鉄の時代の痕跡が冷えびえと息づいている。昔の姿そのままに、いまは深い眠りについた梅小路の一隅で、ぼくはあやうく感動する。
これは鉄の時代の終焉をものがたる一つの風景だ。鉄とともにこの国の近代化が推し進められた。鉄とともにこの国の軍国主義もすすんだ。そして打ち振られた日の丸の旗のなか、この機関車が出征兵士を運んだ。
この風景のなかで、ぼくの網膜のなかに傾斜角をもった第三インター記念塔のイメージが浮かびあがる。始動する鉄の時代の過激な朝ーーメイエルホリドよ、マヤコフスキーよ、あなたたちもこの風景のなかに息づいているのか。ブレヒトよ、ホルヴャートよ、ソシテエルンスト・ブロッホヨ、ノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の闇も、この風景のなかに漂う。
そしていま、ぼくらは廃墟となった鉄の終焉の風景のなかで「銀河鉄道の夜」を上演しようとしている。宮沢賢治の四次元世界のプリオシンの岸辺に、果たされなかった約束や、人知れずもらされた吐息や、夢みられた夢の化石が埋もれている。排除された歴史の歴史を発掘する人たちの影も見えるのだ。
「銀河鉄道の夜」の上演台本を書くとき、ダダの画家マルセール・デュシャンに啓示を受けて、賢治の「おかあさんのおかあさん」をぼくはとらえた。それから影たち。桧のまっくろにならんだ坂の道で、りっぱに光っている電灯の下でジョバンニが出会う影たち。その影たちが排除されたものたちの化石ーー歴史の歴史を掘りおこしている。
蒸気機関車が回転して、まっかに照らし出され、銀河の底でうたわれる”さそりの歌”をジョバンニたちが歌う。林光によって作曲された歌はオキナワの民謡を連想させた。機関車は身を震わすように白い煙を噴出させて号笛を吹き鳴らした。人々は涙を流した。ぼくも泣いた。