12月3日、自宅を04:45に出発、車で菅平に行ってきた。環八、関越、上信越道の上田・菅平で高速道路を下りた。144号線、406号線を通って、菅平入り口に08:00に到着。
数年前に買った別荘を手放すことになったのです。経済不況の真っ只中、少しでも流動資金を確保したいので売却することにした。今まで別荘の管理をしていただいていた香さんに、お礼の挨拶をしなくてはいけないと思いついたのです。香さんは、我々の別荘の前の道路を隔てた向かい側でペンションを経営されているのです。ペンションの名前は「じゃじゃ馬山荘」です。
売却にあたっては、売主である弊社は宅建業者でもあるので、買主さんに交付しなければならない書類を須坂市役所で取得する必要がある。建物の設備のチェックもしなければならない。長野地方法務局での仕事は、インターネットと郵便で事足りたので、時間は短縮できた。
保有していた期間はたったの3年半だったけれど、社員や社員の家族、友人には数々の思い出を演出してくれた。夏に冬に、建物が大きいのでグループで利用できたのです。
私にとって、この別荘には格別の思いがあったのです。菅平という土地柄だ。私の精神と肉体、を鍛えてくれたのは、ここ菅平の母校のグラウンドだったのです。元々、根性のある方だったのですが、その根性にさらなる磨きをかけてくれた。丈夫だった体に鞭を打ち、なお一層頑健な体に鍛えてくれた。大学4年間の夏合宿、疲労、苦痛、汗と鼻汁、よだれにまみれて過ごしたサッカーのグラウンド。昼間は真っ赤な太陽と砂ほこり、夜には清澄な風、冷たい水、美しい星と空、柔らかい布団。
早稲田大学菅平グラウンド
エリートと呼ばれる部友たちに囲まれ、励まされ、実際に足や手、首を引っ張り回されて、何とかみんなの足かせになりながらも頑張れた。感謝している。走っている後ろから、ぐいぐい押されたこともある、決められた時間内に走りきらないといけないのです。
技術も体力も、みんなとは同じようにはいかなかったけれど、なんとかやり通せたことで、私は、私の大人としての一歩を踏み出せたと思う。私の秘(ひそ)かな自信にもなった。大人としての行動の原理原則をここで、身につけたのだ。
そんな足手まといのサッカー部員が、練習だけではなくて金銭に関しても部友に多大の迷惑をかけたのです。4年間の部費踏み倒し、寮費踏み倒し、みんなで酒を飲みに行っても、清算する段になって、私だけは割り勘に参加できなくて、一人食い逃げ飲み逃げ?蚊帳の外状態だった。こんな男を大目に見て、手放しで許してくれた先輩、同輩たち。浪人中、ド方仕事で貯めた資金から、入学金と4年間の授業料を差っ引いて、その残った金額を4年間48ヶ月で割った額が送金されてくるのです。が、その額はみんなの半額、3万円だったのです。目を瞑(つぶ)って付き合ってくれた。心優しい後輩にも恵まれた。感謝しても、感謝しきれない。迷惑をかけたことが、卒業後も気になっていて、事あるごとにそのことが思い起こされ、いい気がしなかったのです。
そんな折、この別荘を買わないか、とかっての会社の同僚だった佐から持ち込まれたのです。即、買うことを決意した。私には思惑があったのです。日本の各地から、サッカー部の合宿に馳せ参じてくる卒業生のために、現役の選手と同じ合宿所では酒は飲めないし、夜遅くまでの談笑は許されない、それならば卒業生みんなのたまり場にでもなれば、こりゃ喜んでもらえるだろうと思い巡らしたのです。今までの不孝を許してもらうのに、こりゃ打ってつけだ。
ダボス山(スキー場」
「じゃじゃ馬山荘」さんに挨拶に行った。ご夫婦は以前にも増して元気だった。ご主人さんは72歳でピアノ歴は長く、奥さん75歳で2年前からドラムを叩き始めたとのことでした。月に2回、先生が来てくれるのだそうだ。先日、老人達のダンス大会があったのですが、150人の前でドラムを叩いてきましたと、上機嫌だった。その曲はジャズなど洋楽ではなくて、50年ほど前の「東京ラプソデイ」なんですから、笑っちゃいますよね、と。それから、ペンションの仕事を、あなた達と会った頃、やめようと思っていたのですが、最近昔のお客さんが思い出したようにパラパラ来てくれるようになって、やめられなくなっちゃいました。苦笑していた。でも、商売抜きなので、いつまでも居ていいよ、なんて調子でやっています、と仰っていた。私たちも今まで、色んな人のお世話になってきたので、これからは、みなさんにお返しをしながら、生きようと話し合っているのです。奥さんの顔は少し赤みがあって、つるつるしていた。可愛い紀州犬の子犬がいた。人懐っこくて、私にくっついて離れなかった。
それから、須坂市役所に向かおうとしたのですが、どうも母校のグラウンドが気になって、今度ここへやって来るのはいつのことやらわからない。見納めにはしたくないが、ここでグラウンドをもう一度網膜に焼付けておかなければ後悔する。思い出がセピア色になりかけていた。誰もいないグラウンドは、小雨が降るなかにひっそりと静かにたたずんでいた。悲しそうにも寂しそうにも見えた。グラウンドを前に、当時のことを思い出そうとしたが、40年以上も前のことだ、激しく熱いものは湧き起こってこない、とにかくグラウンドも私も、今は静かだ。当時もそうだったが、今も菅平は私には、他人行儀でよそよそしい。温かく迎えるという風情ではない、冷たく厳然と立ち向かっている。容赦しないぞ、とでも言いそうな気配だ。
追慕、菅平は遠くなりにけり、だ。
なんだか、物足りない。静かに、ボーウッと眺めるだけで、このまま、帰るわけにはいくまい。過去の激情が蘇ってくるのではと期待したのに。畜生、俺はどうなったんだ?。そうだ、それならスキー場のダボス山にでも登ろう。学生時代、朝に、昼に走って登った。制限タイムに入れなかったら、罰が用意されていた。突然、この体を痛めつけたいという欲望が、キリギリと湧いてきた。脂肪で弛(たる)みきったこの体を苛(いじ)めるのだ。一気に走って登ろう、ぜえぜえ、息を吐きながら。40年前の、合宿中の激しい練習の痛苦の一部でも、この私の肉体に蘇らせるのだ。
でも、ーーそれは無理だった。走るどころか、ゆっくりゆっくり歩いて登るのが精一杯だった。息は荒れない、乱れない。学生時代には、韋駄天のように駆け上り、下りはめっちゃめっちゃスピードをあげて、足元に何があろうとも、牛の糞があちこちにあったのですが、そんなものへっちゃらに無視して駆け下りた。今、私はゆっくりとゲレンデを振り返り振り返りしながら登っている。小雨が頬に冷たい。何日か前に降った雪が頂上付近に少し残っていた。頂上から、パノラマのような景色を見渡した。遠くには山が連なり、近くにはあちこちにグラウンドやスキー場、畑が視野いっぱいに広がっている。
そして須坂市役所に向かった。用を済ませた。
会社に戻ったのは、17:00だった。