私が子供から大人になりかけた頃、ベトナムでは猛烈な戦争が行われていた。1965年(私が高校2年生だった)頃に米軍は北爆を開始した。戦争は拡大の一途、私は多感な高校生でした。
グエン・ベトさんが、10月6日に26歳で亡くなったことを報じる新聞記事を見つけた。ベトさんとドクさんは、下半身がつながった結合双生児として生まれた。彼たちが生まれた状態の仔細な報道を聞いた時、世界はその異常さに度肝を脱がされた。日本では、ベトちゃんドクちゃんとして親しまれた。2人はベトナム戦争時にアメリカ軍が大量に散布した枯れ葉剤の影響が出たと言われている。
米軍は、抵抗するベトコンのゲリラ戦に手を焼き、方法手段を選ばず、人道上大いに問題あることを平気でやっていたことになる。
そして、べトナム戦争が始まって米軍が敗退するまで、私は何を考えながら青春を過ごしていたのかを、戦争の経過と合わせて回想してみた、が断念ながら、途中までで終わりました。
2007 10 19
朝日朝刊
枯れ葉剤被害のベトナム双生児の兄 耐え続け無言の伝言残す
グエン・ベトさんが亡くなった。 (山本大輔 )
今まで見たことがないくらい安らかで、きれいな顔だった。ベトナム戦争中に米軍がまいた枯れ葉剤の影響とみられる結合双生児だった双子の弟・ドクさんとの分離手術から19年、脳症の後遺症で一言も話すことなくホーチミン市内の病院のベッドで生き続けた。「最後の最後にやっと苦しみから解き放たれた安心感が表情に出たのだろう。よく頑張った」とグエン・フォ・タン主治医(48)は語った。 ベトナム中部高原の村でドクさんと下半身の一部がつながった状態で生まれた。母親のラム・ティ・フェさん(54)終戦直後に枯れ葉剤がまかれた地域で農業をしていた。枯葉剤は土壌を汚染し、人体を侵す。双子も犠牲となった。脳症になる前は言葉も会話も問題なかった。大胆で積極的なドクさんとは対照的に物静かでおとなしい性格だった。ドクさんが好んだ歌謡曲風のリズムよりクラシックのような音楽が好きだった。「口げんかばかりだった。『おれの方が強い』と言うドクに、いつも負かされ感情的になっていた」とフエさん。一つの体を共用する対極的な存在だった。5歳の夏の86年、急性脳症で意識不明の重体に陥る。2人を切り離した88年10月の分離手術でも意識は戻らなかった。みなが「数日の命」と言った。以来、肺炎や出血、腎臓障害などを併発しながらも苦しみに耐え続けてきた人生だった。それでも確かなメッセージを残して旅立った。「多くの人がベトを見て感じたことが、ベトからの無言の伝言」と支援者でホーチミン市在住の日本語教師・富山悦子さんは考える。「一番変わったのは弟だ。枯れ葉剤被害について多くの人たちに発信したい。人前で話すのが苦手なドクさんが富山さんに語った言葉だ。「ベトは自分を犠牲にして僕を生かしてくれた。これから僕は彼の人生も生きる」。一度は離ればなれになった双子が再び一つになった。
*こんな記事を読むうちに、青春時代のあの頃の自分のことが甦ってきたのです。
ベトちゃんドクちゃんが結合したままの二人の写真が、新聞に掲載された。私の長女が4歳、長男が2歳で、妻は次女を妊娠中だったように思います。子供を持つ親になりたての頃です。子の出生を何とか無事にと、一度でも祈ったことのある者には、非常にショッキングなできごとでした。二人の両親の心境に思いを馳せた。
私の記憶が風化しないように。
ベトナム戦争に対する、私の反戦への思いが高まっていった。
そんな経緯をたどってみた。
私が中学1年生の頃、南ベトナム政府に対する反政府軍が、北ベトナムの支援を受けて、南ベトナム解放民族戦線が結成された。この部隊のことを通称ベトコンと言われていた。その頃、 私はベトコンを馬鹿にしていた。世間にそんな風潮があった。何もわからないままに、体に木の葉っぱをつけて動くさまが、子供心に可笑しかったのだろう。ベトコンの真似をして、皆を笑わせてもいた。ベトコンという呼称は蔑称のような取り扱いだった。きっと、たまたま見たテレビで、面白可笑しく取り扱ったものがあったのだろう、私は誤解したようです。ベトナムは、これから、長く、苦しい、悲しい本格的戦争に突入していくのです。アメリカの大統領はケネディ、南ベトナムの大統領はグエン・カオ・キ、北ベトナムの首相はホー・チ・ミン。
大学に行きたいと思っていたのに、どこにも入学の夢はかなわなかった。そして身分は素浪人。勉強だけで一日を過ごすことのできない私は、気分転換も兼ねて学費稼ぎのドカタ稼業に身を置いた。社会の底辺で働くことで、社会の矛盾や世の中の不合理なことに鋭敏に反応するようになっていた。大人の世界に飛び込んで、大人の会話を耳にした。労働の面白さと大変さと大切さ。請負という形式から得る労働の対価としての日当、発注者と請負者、下請け、孫請け、その下請け、そんな構造に興味が湧いた。
大会社の発注者がいて、下請けの下請けの下請けの親方がいて、末端の我々がいる社会の仕組みを知った。そうして、私こそ真の労働者だと、反ブルジョア的人間に傾きかけていったのです。正直者の私は、 常に原理主義者?でいたかった。私は、ますます過激な思念に傾いていったようです。
早く大学に入りたい。あんなベ平連なんかには、任せてなんかおけないやんけえ(関西弁です)。北爆が始まった。爆撃は、北の産業基地や中国やソ連からの供給物資を運ぶ通称〈ホー・チ・ミン・ルート〉と言われている軍事ルートだけでなく、人口の集中している地域までおよんだ。テレビの画面を両手で覆った。雨のように、ナパーム弾が降下された。ジュウタン爆撃というヤツだ。
当時、何故こんなことになってしまったのか、誰も教えてくれなかった。首相の佐藤栄作はアメリカに理解を示し、社会党と共産党は反対していた。自民党が何故アメリカに理解を示し、社会党等は何故反対しているのかを、友達の間でも話したこともなかった。戦争に正義なんてないことを、そんな年齢の私でさえ、解っていたのに。日本にある米軍基地は、戦場への補給基地として重要な位置を占めていた。沖縄の嘉手納基地からは、爆弾を積んだB52が直接ベトナムへバンバン飛んだ。
ずうっと後のことだけれど、アメリカが仕掛けた最悪のベトナム戦争を、世界のほとんどの国が反対するなか、支持し続けた元首相の佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した。どうなっちゃってるの? ノーベル賞の選考委員会はどうしたのだろう。佐藤栄作贔屓の人でさえ、ビックリこいたのではないでしょうか。
世界の各地で反体制運動が起こっていた。私もまた過激な反戦、反米に傾いていく。俺は素浪人のままで、こんな所で、こんな事をしていて、ええのか。どうなんじゃ。ドカタをしている場合ではないぞ。あせっていた。勉強にはもともと力は入ってはいなかったが、学校には早く入りたかった。
1967年、昭和42年、浪人1年目、東京都に革新の美濃部知事が誕生。京都は長年革新の蜷川知事だった。
南ベトナム全土で解放勢力が猛烈な攻撃をかけてきた。〈テト攻勢〉である。南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム政府軍はテト(旧正月)のお祭り騒ぎに乗じて一斉攻撃を開始した。 南ベトナム軍とアメリカ軍は、完全に理性を失いかけていた。なりふり構わぬ、あせりだ。ヤケクソになりかけているようにも思われた。
1968年、世界の各地で反体制運動がピークをむかえた。政治・経済・社会・文化の改革を求める市民が権力への対決姿勢をあらわにする。面白くなってきたぞ、と喜んでいた。各地の反体制運動には多種多様なイデオロギーを掲げていたが、いずれもブルジョア的価値観をことごとく拒絶した。私も、この世界のうねりにピタット共鳴していくのです。自ら、過激な行動の模索に入っていく。反戦の内容のフォークソング集会があっちこっちで開かれていた。歌なんか歌っても、しょうがないのではないか。
後に、1968年(昭和43年、浪人2年目)に起こったコロンビア大学の学園闘争を題材にした映画「いちご白書」が作られた。好奇心と彼女への恋心から学生運動に身を投じたボート部の学生と活動家の女子大学生の恋愛を描いた。最後は、当局の一斉検挙が実行されて、終幕を迎える。後に、この映画を観た。終幕の悔しい思いよりも、彼女との恋愛に悩む学生が羨ましかったことの方が、頭に残った。
1969年、アメリカの大統領は、リチャード・ニクソンが就任した。昭和44年のことです。私は念願の学校に入学することができた。何を、どうすればいいのか、漠然としていたけれども、野心に燃えていた。夜行列車を乗り継いで、キセルを繰り返しながら、東京に着いた。2年間のドカタ暮らしで、筋肉隆隆、精神力は十二分に鍛えられていた。学力以外は、何も恐い物なし、だ。私には、並みの学生とは違うのだぞと強い自負心があった。ドカタで稼いだ金がある。2年半の授業料と生活費は十分貯えてある。2年半後は、その時考えればいい、なんとかなる。
反戦フォークソングを歌っていても、しょうがいのではないか。ベ平連なんか、屁(へ)みたいなもんじゃないか。
各大学の学園紛争の影響で、日々私は刺激を受けっぱなしだった。ベトナム戦争の泥沼化のなかで、私はこれからの学生生活に向かって力んでいた。精神が昂揚していた。何か、やり遂げないと気がすまないぞ。一発、やってこましたるぞ。世の中の誰よりも平和で民主的な国家、国づくりを望む、過激な学生になってやる。いい男になってみせるぞ。お母さんからは、警察に捕まるようなことだけはしないでくれ、と言われて田舎から出てきた。警察に捕まって、田舎で頑張っているお兄さんの顔に泥を塗るようなことだけはしないでくれ。それ以外なら、なにをしてもいい。金持ちにならなくてもいい。エラクならなくてもいい。
東大安田講堂が陥落。
40万人が集まったウッドストック。
ベトナムで北爆が強化。
新宿駅地下西口広場で反戦フォーク集会で若者と機動隊が衝突。
私の入学した学校は、入学して3ヶ月もしないうちに、授業は開かれないままクラス討論会を繰り返した。そしてクラス討論会の後は、校庭をデモしてまわった。私に急接近してきた友人の影響もあって、クラス単位で参加するデモには必ず参加した。頭の中では、こんなことをしているだけでは、授業料も安くならないだろうし、学生会館の使用についても学生が自主的に使えるようにはならないだろうなあ、と疑いながらデモってた。
学生会館の自主的運営一つ獲得できないようでは、真の学生自治なんてありえないではないか。脳足りんの馬鹿学生集団になっちゃうよ。そして日本国の将来、独立独歩の行く末を論じる学生なんて生まれっこないぞ。やっぱりアメリカの属国っか。そのうちにストライキ突入、ロックアウトで学校敷地はバリケードで囲われ、誰も入れないように封鎖された。バリケードの外周りをデモった。
1970年(昭和45年)3月、大学1年生の時。よど号ハイジャック事件。日本航空ボーイング727型機が羽田空港から福岡空港にむけて飛び立った。富士山上空あたりでハイジャックされた。平壌空港に着陸した。
11月、作家の三島由紀夫が、自ら主宰する〈盾の会〉の会員4人とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自衛隊員にむかって決起を呼びかけた。その時、私は東伏見の隣駅の柳沢で、ダンボール箱をつくる会社でアルバイトをしていた。三島由紀夫は、憲法改正による自衛隊の国軍化、天皇を中心とする日本古来の伝統の擁護を訴えた。私には、滑稽にしか見えなかった。三島は割腹自殺した。三島の行動には、さすがにおったたまげた。三島の本をむさぼり読んだが、いまいちピ~ンとこなかった。でも、精神の空白化とか、政治の退廃について命がけで問題を提起したことには、感動した。三島の原理主義に嫉妬した。
新宿駅騒乱。大学1年だったか、2年だったか、新宿駅に学生デモが突入して、線路の敷石を機動隊に投石した。私は、その日昼間はサッカー部として練習して、学校でクラス会をすることになっていたので夕方学校の近くの喫茶店にいた。そこに集まった友人の一人は異常に興奮していた。彼はそのデモに参加することにしていたようだったのだ。そのデモで、逮捕されたことを2年後に友人から知らされた。クラス会を終えて高田馬場駅に着いた時には、新宿駅が大騒乱の状態だということを知った。高田馬場から歩いて新宿駅に向かった。そこで目にしたのは、恐怖だった。けが人が救急車で運ばれる。学生と機動隊のがなりたてるマイクの音。サーチライトが狂ったようにあっちこっちを照射する。何から発生しているのか不気味な鈍い音、突然に轟音が聞こえる。催涙弾の臭いがする、煙が見える。商店街はシャッターを下ろし、店主らしい人が心配そうに様子をうかがっていた。佐藤栄作の渡米反対、ベトナム戦争反対がスローガンだったと思う。
私は、ヤジウマのなかで一人、疎外感に苛(さいな)まれた。何にも参加できない弧独と焦燥。傍観者に過ぎないわが身を恥じた。
こんな筈じゃなかった。田舎にいる時は、俺こそ過激な反戦の騎士になってみせると張り切っていたではないか。、この怯(ひる)み様はどうしたのだ?お前は、ただのフヌケじゃないのか。
でも、これって本当に革命をめざしてのことなの?
深夜、西武線の終電のあと、一人で線路の上を東伏見まで歩いて帰った。空(むな)しかった。3時間ほどかかったのかな。東伏見に着いたときには、空がうっすら白みかけていた。明日も、サッカーの練習が待っている。寮には、こっそり入らなければ、大変なことになる。明日のために早く寝なければならない。翌日、同輩たちが「昨日は、新宿、大変やったな」、と話し合っているのが聞こえた。私は知らん振りをしておいた。
1972年(昭和47年)2月、大学3年生の時。浅間山荘事件。武装して逃亡していた連合赤軍の5人がヤマハの保養所に逃げ込み、管理人の妻を人質にたてこもった。サッカー部の寮のテレビで釘づけになった。革命?を目指していた? 革命ってなんだったんだ。
文章は途中だけれども、公開することにしました。 07 12 22