2007年12月13日木曜日
丹沢大山から七沢温泉
12月5日、丹沢大山を登ってきた。
朝8時、オジサン4人組は小田急線秦野駅に集合した。
今回のメンバーは私、平塚駅前の副田さん、成瀬駅前の佐藤さん、我社の社員の父親の小澤さんの4人でした。4人は、神奈川県不動産のれん会のメンバーです。小澤さんだけは、若くしてのれん会OBで、現役のビジネスマンではありません。それぞれ、偽名を使わせていただいた。佐藤さんの本名は、柔くて軟いイメージを膨らませていただければ、自ずから会社の名前は浮かんでくる。副田さんのことは、平塚駅界隈の商店街を仕事場にしているオジサンで、お話をキチンキチンと丁寧に話される、賢い人です。私は尊敬しています。
秦野駅からバスで蓑毛を過ぎて、ヤビツ峠で下車、所要時間25分。蓑毛から歩き出す人の方が多いのだが、我々は今回はゆっくりぶらぶらを優先させたので、ここで降りずにヤビツ峠まで乗った。常に無理をしないグループです。軟弱かも。
9:30 しばしの体操の後、ヤビツ峠を後に大山山頂を目指して歩き出す。
大山は、標高1252メートル。紅葉の見ごろ2週間か10日遅れの観賞ということになったが、それでもじゅうぶんオジサン4人組を楽しませてくれた。おぅオ~と立ち止まることしばしば。陽射しを真正面に受けたモミジの鮮やかな紅色、イチョウの黄色、雑木類の黄色から赤色、橙色が、杉林の濃緑色とコントラストをなす。絵画的だ。木漏れ日に照らされたモミジがあたかも照明を浴びたステージ上の女優さんのようだ。どきっとするほど、艶(あで)やかだ。山系は伊勢原、秦野、厚木の三市にまたがって裾野を広げている。一帯の丹沢山系をまとめて県立丹沢大山自然公園の指定を受けているのですが、その中心地域を丹沢大山国定公園に指定されているのです。かって江戸時代には、大山詣は江ノ島詣とセットで庶民の娯楽の一つだった。また山岳信仰のメッカとして、登山は「大山講」と呼ばれた。古くは、大山のことを雨降山といわれ、関八州の雨乞いの霊場でもあった。丹沢山系から流れる良質の水を利用しての豆腐作りと、民芸品の「独楽(こま)」作りが有名だ。山岳信仰と豆腐は、高野山も京都も同じだ。
霜柱があちこちにできていた。登って行くと、前日か前前日に雪が少し降ったようで、陽の射さない斜面などには、うっすらと白の薄化粧。初い初いしくて、なんだか恥ずかしく感じるのは、俺だけ?。今は初冬なのだと、実感した。振り返ると、富士山は裾野まで白装束だ。さすが、富士山は日本一美しい。ぎょっとするほどみずみずしい。富士山は、毎年冬を迎える度に、若さを取り戻すのだろうか。山容はゆったりとなだらかだ。
中年女性のハイカーが我がチームを追いつき追い越していく。逆からもやってくる。女性の元気なのは、日本がケッコウな状態だってことだろうか。女性は世の中のリトマス試験紙だ。男は、見栄をはったり、目先の金に目がくらんだりするが、女性はきっちり世の中の動向を見ている。まだ、女性が怒り出すほどまでには悪化していないってことなのだろう。振り返り、振り返り富士山を眺めながらの登り坂でした。太宰さんによると、井伏鱒二さんは、愛敬よく放屁をなされたらしいが、私も負けずに富士山に向かって小用と放屁をかまさせていただいた。
歩いてる最中は、以前に登った山と温泉の思い出話、気にしている健康問題、日々の食事のこと、旅行に行ってきたこと、これから行く旅行の話、家族のこと、仕事の悩み事、友人、仕事仲間のこと、出身学校の事情などを誰はばかることなく大きな声で話し合うのです。佐藤さんは、兄弟間の確執に熱がこもる。息が荒くなるときもある。山気のこもった空気を、肺胞奥深くまで吸い込む。山の「精」がいっぱい含まれていて、栄養満点のような気がする。この山の空気が、俺を蘇らせてくれたのだ、と常々こぼす副田さん。それに、俺は15年前は、もう死んだも同然の状態だったのですよ、と。昨日はテニスを5時間もプレーしたとおっしゃる小澤さん。
ゆっくり、ゆっくり歩いた。今回は、佐藤さんが隊長の山登りクラブの忘年会なのです。
大山山頂には11:00ころ到着した。
山頂は視界360度。体を一回転して眺望を楽しんだ。気温は5度ぐらい。空気は澄んでいる。北には筑波山、南は真鶴、東は東京から横浜、西は富士吉田。山頂にある全方位の案内盤は、ずいぶん前に設置された物なのだろう、富士吉田市、東京市になっていた。三浦半島、真鶴半島、東京新宿のビル群、横浜のランドマークタワーがはっきりと見えた。山頂には、阿夫利神社があった。
昼飯を摂った。佐藤さんが自宅の庭で採れた柿を広げてみんなに勧めてくれた。私は大の柿好きなんですよ、と言うか言わないうちにパクパク口にしてしまった。秦野駅売店で買ってきたバナナを3本食った。30分ほど休憩、談話してから下った。
下りは、下りの坂ばっかりでした。富士山が山で隠れて見えなくなった。道は単純な下り坂で、楽しみは紅葉だけ。でも、紅葉は見ごたえがあった。飽きたころにモミジがイチョウが、目を楽しませてくれる。学生時代に膝を痛めていて、下り坂が続くとダメージが増してきて歩き方もヘンチョコリンになるのです。これはどうしょうもないサッカーの後遺症です。退屈な杉林の間をお喋りしながら歩いた。お喋りには、いつも花が咲くのが我がチームの特徴です。
15:00 広沢寺温泉の玉翠楼に着いた。宿泊するお宿だ。売り物は「元祖シシ鍋」。七沢温泉の一番奥の一軒宿だ。昭和の初期に建てられたそうです。宿の内外にはイノシシの剥製から、イノシシのおもちゃ、イノシシに関するものが展示されていて、何もかもイノシシづくしだ。70歳代と思われる老夫婦とその息子夫婦でやりくりしているようでした。露天風呂に入る。ここの湯は、強アルカリ性だそうです。宿のパンフレットには、美人の湯だとか子宝の湯だとか言われているが、それってどういう意味? そして、シシ鍋に舌鼓(したつづみ)を打った。酒は地酒、黄金井酒造の「盛升(もります)」。口当たりがよく、私にとっては珍しく冷でぐいぐい飲んだ。美味かった。温泉で癒された、疲れた体には快く沁み込んだ。
酒宴での主たるテーマは自分たちの子供のことだった。どの家庭にも、子育てにおいてはイロイロありそうだ。私は元気者だった娘のことを話した。今から振り返ってみると、手を煩わせられたことはすっかり忘却の果て、俺も若かったなあ、と寧ろなつかしい思いがする。不思議だ。今は子供を育てながら介護の仕事に精を出している娘だからこそ、こんなに暢気でいられるのだろう。幸せじゃ。
シシ鍋をたらふくいただいた。酒が頭の天辺から手足の指の先っちょまで行き渡ったところでお開きにして、私はバタンキュっと床についた。先輩たちは惜しげもなく、温泉に入り、湯を楽しまれたとのこと。
翌日(12月6日)は宿泊料の精算を済まし、9:00に宿を出て、日向薬師に向かった。戻ってきたらもう一度温泉に入りたいと言ったら、通常1000円の入湯料が500円になる割引券をいただいた。熊が出るので、何か音の出るのをお持ちですか?と女将から聞かれたのですが、本気なのか冗談なのかはかりきれずにとぼけていると、女将さん、ますます真剣に聞いてくる。この真剣さはなんだ。そんな面倒くさいことは嫌なので、とぼけ切るつもりだったのです、が女将はしつこかった。しばらくしてから、「持ってないなら、ラジオを貸すからこれを持って行きなさい」、命令口調だった。「はい、ラジオは私が担当します」と言って、腰にぶら下げた。15:00には戻ってきまあ~す。昨日よりも暖かかった。そのかわり遠方までは眺められなかった。やはりツキノワグマやシカの糞と思われるのが、あっちこっちで目にした。最近はヤマビルがシカに付着して、シカの広範囲な行動にともなって広がっている。地面に直接足や尻を着けないように注意された。
日向薬師に11:00到着。
日向薬師は、案内書によると日向山霊山寺と言われ元正天皇716年に行基が開創した。眼病には特に霊験あらたかといわれている。日本三薬師と言われているそうです。他の二薬師はどこなんだろう?後日の調査に委ねるとするか。昔、罪人の駆け込み寺といわれた浄発願寺、天武元年(672年)壬申の乱で破れ、近江で自刃したが、実はここに逃れ没したとも伝えられている(伝)大友皇子之稜、石雲寺をめぐって、日向薬師の下の梅林で、宿で作ってもらったおにぎり弁当を食った。学校でならった、あの有名な壬申の乱の主役の大友皇子さんだ。相手方は、確か大海人皇子さんだ。憶えていたことに感動した。石雲寺で漁鼓(ぎょく)を叩いた。そして大田道灌日向薬師ののみち(現在は、関東ふれあいの道)を通って、七沢温泉の玉翠楼に戻った。途中には、熊が出ますよ、気をつけてくださいの看板がやけに目立ちました。先日、ほんの1ヶ月ほど前に、自転車の子供を熊が追っかけたのですよ、と地元の人が言っていた。ロッククラミイングの練習をする崖もあった。
宿に戻って温泉に入って、ビールを飲んだ。
宿の息子さんに途中のバス停まで送ってもらい、そこから本厚木まで出た。そこで、ビールと日本酒の燗を3本ほどいただいて帰途につきました。
土産は五穀米でした。何故かって?お土産は、実用品優先です。