2007年12月27日木曜日

忘年会「銀河鉄道の夜」のご挨拶

12月27日。15:00から

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のお芝居鑑賞が、アーバンビルドの忘年会だ。参集してくださった方々にする挨拶の案文を作った。

挨拶文


本日は、アーバンビルドの忘年会によくぞお集まりくださいましてありがとうございました。横浜一元気な会社のアーバンビルドの山岡です。日ごろアーバンビルドの業務に、参加協力していただいて、社員一同感謝しています。皆さんのお力添えをいただいて、迷うことなく成長まっしぐらと行きたいものです、が、我々の業界は、今、すさまじく逆風が吹いています。ここにお集まりの皆さんは、厳しい状況にこそ本領を発揮される元気者ばかりだと思っています。日常業務のなかで、皆さんの表情から強い意志を感じ取っています。強い気魄も感じ取っております。

ところで、今年の忘年会は、全く私の独断で決めさていただきました。好き嫌いの問題じゃないんだね、と寛容にご理解ください。

40年前の学生時代、私と青島はこの場所の隣町の東伏見で4年間を過ごしました。当時の住居表示は、東京都北多摩郡保谷町東伏見でした。青島は、体力もあったし技術的にもなかなか優秀でしたが、この私ときたら、もうどうしょうもない状態だったのです。上手とか下手とかの問題ではなく、走れない、真っ直ぐ蹴れない、飛べない、木偶(でく)の坊でした。「山岡、お前、ケツに糞でもはさんでいるんか」とキングに言われました。どんな言葉で怒られても、絶対へこたれるヤワイ男ではありませんが、さすがにその時はへこたれました。そんな私でも何とかなりだした頃、知り合った牛島孝之さんというオジサンが、時々東京演劇アンサンブルの舞台稽古を見に連れて行ってくれたのが、この劇団との付き合いの始まりです。牛島さんは、誰が何と言おうが、立派な放送作家でした。が、当時牛島さんは苦しんでいました。非(避)社会人、嫌(倦)社会人、反(半)社会人と化していた。でも、私にとってはとっても重要な人だったのです。そんな牛島さんから、私はいろんなことを教えていただいたのです。大企業がもたらす公害、そんな会社にヘラヘラ追従する馬鹿ども。アメリカ帝国主義とそれにへつらう日本の為政者、大国の覇権主義、銭ゲバ、ベトナム戦争、沖縄返還、浅間山荘、成田闘争、税を無駄食う官僚の腐敗ぶり、スポーツのこと、二人のお喋りのネタにはこと欠かなかった。牛島さんは、話が途切れた時、ぽつ~んと話し出すのは、この劇団 東京演劇アンサンブルのことだったのです。とくに、代表者の一人である入江洋佑さんとの思い出話だった。

そして私は学校を卒業して、社会人になった。なぜか不動産屋の社長になった。

今から約15年程前のこと、バブルがはじけて日本は不況の嵐に荒れていた。アーバンビルドは大波に飲み込まれそうになりながらも、かろうじて生き残ったのですが、その長く続いた苦しい日々の、そんな日のひと時、YMCAの教会を借り切って、「銀河鉄道の夜」の朗読会を行ったことがあったのです。その時、本を読んでくれたのが、ツムなのです。今の名前は村野紡子さんです。ツムは、当時この劇団に所属していました。当劇団の代表者の入江洋祐さんの娘さんです。「皆が疲れているんだ、つかのま、なんとか皆を楽しませてくれ」、と私は彼女に懇願したのです。そして実現したのが、「銀河鉄道の夜」の朗読会だったのです。ツムに対しては、交通費しか払えなかったことを、今でも心苦しく思っている。会社は極貧の状態だったのです。その時に、アーバンビルドの軽便鉄道は、横浜の関内から銀河に向かって発車したのです。幻想四次元の空間へ旅立ったのです。軽便鉄道の車窓からは、狂乱地価に踊らされた者どもの阿鼻叫喚、倒産がドタバタ、自殺者が年に3万人、夜逃げ屋本舗大繁盛、大量の家族の崩壊と離散、高利貸しが跋扈しているのが見えるのですが、地上の現実とは裏腹に、銀河からは静かで平和で、楽園そのものに見えました。

そして今年の夏、ひょんなことでセゾン財団の高橋さんと東京演劇アンサンブルの志賀さんとお酒を飲む機会があって、「志賀さん、年末はどんなお芝居をやるのですか」とお尋ねすると、志賀さんは「銀河鉄道の夜」をやりますと仰った。即、その場で、私は忘年会はこれだ、と決意したのです。

走り出したときの軽便鉄道の運転手は私、機関士は中村専務、車掌は矢野女史だった。乗務員はこの3人だけだった。軽便鉄道は頼りなげに、でもしっかりと走り出すことができたのです。一番目の停車駅では、ジョバンニが、出川さんと桜庭と一緒に乗り込んできた。設計や建築が分かる会社になった。二番目の停車駅では、カムパネルラが、海老沢と和泉と一緒に乗り込んできた。販売強化、経理業務強化がなされた。三番目の停車駅では、ほろ酔いの小見が顔を真っ赤にして乗り込んできた。入社するやいなや、会社らしくするための大ナタを振った。高津も乗り込んできた。開口一番、業務拡大に寄与したい、だった。それから青島だ!!俺にも応援させろ、と威勢よく乗り込んできた。静岡地区の仕事は俺にまかせろ、ときかない。セロ弾きのゴーシュが、佐藤と浅見を連れて乗り込んできた。佐藤はキツネを抱いて、浅見はナメクジをポッケットに入れて。白い熊のような犬も、風の又三郎も乗り込んできた。ブドリも、豚も、熊も、オツベルも、象も、北守将軍までも乗り込んできた。注文の多い料理店で腕を磨いていた小澤も乗り込んできた。いきなり業績をあげた。伊藤梓郎が、ホテル事業を一緒にやろうよ~と叫びながら、烏の大群に囲まれて、走り出した軽便鉄道を追いかけてきた。小見が手を差し伸べて軽便鉄道に引っ張り込んだ。そして、ホテル事業を開始した。インディアンも乗り込んできた。

我々が乗り込んだ軽便鉄道は走り続けている。夜空に静かな汽笛を鳴らしながら。次の停車駅にも、次の停車駅にも、たくさんのスタッフが乗り込んできた。軽便鉄道は幻想四次元の世界を快調に走って行く。

三次元現実の、皆さんの会社や・アーバンビルドや・家族や・人間の愛や・歴史が、そんなものが、幻想四次元の世界においては、皆さんの会社の会社が・アーバンビルドのアーバンビルドが・家族の家族が・人間の愛の愛が・歴史の歴史が・そして生命の生命が燃えているのかもしれない、と。この表現は、長年ブレヒトの芝居小屋、東京演劇アンサンブルの屋台骨を支えてこられた演出家で脚本家の広渡常敏(タリさん)さんの表現を真似をさせていただきました。そして、もう少し真似させてもらえば、この幻想四次元の投影として、現実の世界があるらしいのだ、と。

どうか皆さん、宮沢賢治のファンタジーな世界を、幻想四次元の世界を楽しもうではありませんか。幻想四次元の投影として、現実があるらしい、のです。