2007年11月5日月曜日
憲法と市民結ぶ政権の夢
朝日新聞新で、
元社会党の委員長浅沼稲次郎さん
のことを扱った記事が出ていたので、下に転載させていただいた。
私が小学校の5年生か6年生だったと記憶している。演壇に駆け上り、浅沼委員長を右翼の少年が包丁のようなもので2度刺した。浅沼委員長は病院に搬送中に、絶命した。刺した少年は元大日本愛国党員の山口二矢(おとや、17歳)だった。その場で逮捕された。
1960年、昭和35年10月12日、自民・社会・民社の3党首による立会演説会が日比谷公会堂でおこなわれた。浅沼委員長は議会主義の擁護を訴えていたと聞く。右翼の集団が、ヤジを飛ばして演説の妨害をしていた。演説の終わりかけた頃、その集団の中から手に短刀を持った山口が壇上に駆け上がった。そして、悲劇が起こった。
この頃、右翼による活動が活発になっていたらしい。このショッキングな場面を、普及しだしたテレビで、全国的に放映された。茶の間はそのシーンに戦慄した。子供だった私には、その事の重大さが理解できなかった。翌日、私は学校で山口二矢ぶって、再現シーンをやってみせた。そんな無邪気な子供だった。
なんだろう?
何で?
この事件は私にとって、政治とはいったい何なんだろう?と考える最初の出来事であった。それにしても、今から思うに、3党が党首を立てて公開の場で意見を交わすなんて、よっぽど昔の方が民主的だったのではないのか。
その後、浅沼稲次郎は私の出た大学と同じと知って親近感を抱くようになった。あのガラガラ声と、その特徴的な風貌で人気があったと聞く。「ヌマさん」、と友党にも対立する党にも慕われていたそうだ。
ポリチィカ にっぽん 早野 透(朝日新聞コラムニスト)
2007 10 29 朝日朝刊
浅沼と江田
「ドナウの真珠ブダベスト。失われた革命とオリンピックの栄光」。そんな誘いのフレーズに惹かれて、「君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956」の映画の試写を見にでかけた。
独裁的な共産政権下、市民たちは自由を求めて立ち上がった。だが、ソ連の戦車がたちはだかる。流血、そして敗北。その渦の中で愛し合ったオリンピック水球選手と女子学生の悲劇。「私たちはかみしめる。自由はすべてに勝る贈り物であることを」。いい映画だった。
「ハンガリー動乱」から半世紀、この国は自由をかちとって、この映画ができた。ハンガリーに遅れること4年、日本では、国会の周りを空前の民衆デモが取り囲む「安保闘争」が起きた。こちらももう少しで半世紀になる。日本の場合、あの劇的な日々は何を生んだんだろう。
今月12日昼、国会近くの憲政記念館で、社会党委員長だった浅沼稲次郎の追悼集会が開かれた。1960年のこの日、「ヌマさん」は東京・日比谷公会堂で演説のさなか、17歳の右翼少年に刺殺された。岸信介首相退陣とともに「アンポ ハンタイ」のデモの波が引いて、高度成長に向かったころだった。
沼は演説百姓よ 汚れた服にボロカバン きょうは本所の公会堂 あすは京都の辻の寺
戦前から「無産階級」のために、がらがら声で走り回った。 「人間機関車」ヌマさん。東京の下町、深川の安アパートに住み、馬肉を好み、銭湯に通った。底抜けに楽天的で、かくも大衆に愛された政治家はまれだろう。しかし、なぜ、いま急にヌマさんなのか。
追悼集会で、土井たか子、村山富市の歴代委員長が語った。岸信介の孫、「戦後レジームからの脱却」の安倍晋三首相は退陣したけれども、国民投票法は残った。土井さんは「参院で与野党逆転した。次は憲法を大切にする多数派をつくらなければ」と述べ、村山さんは「9条を守ること。それが浅沼さんが生きているということ」と熱弁をふるった。集会呼びかけ人には民主党の横路孝弘衆院副議長、江田五月参院議長も名を連ねた。どうやらヌマさんをかついで、安保闘争にも似た「護憲再結集」を策そうということらしい。
もうひとつ、同じ12日の夜、「江田三郎没後30年・生誕100年を記念する集い」が都心のホテルで開かれた。浅沼が殺されて社会党の委員長代行となったのが江田である。銀髪、ソフトな語り口、エダさんはヌマさんとは違った魅力でテレビ時代の大衆をひきつけた。
しかし、それからの江田はいばらの道だった。かたくなな社会主義ではもうだめだと「構造改革」を唱え、「江田ビジョン」でこれからの四つの目標を打ち出した。 アメリカの生活水準 ソ連の社会保障 イギリスの議会制民主主義 日本の平和憲法
今から思えば、なんと当たり前のことだろう。江田がめざしたのは「市民的自由」だった。だが、教条派は「敵のアメリカを見習えとは何だ」と悪罵を投げ続けた。そんなことでは社会党は人々の気持ちをつかめないのに。江田は「議員二十五年政権とれず 恥ずかしや」と嘆きつつ、一人で離党した。
「記念する集い」のシンポジウム で、民主党の菅直人代表代行、江田の息子の五月参院議長らが語り合った。69歳の江田が死を前に「社会市民連合」をつくったパートナーが当時30歳の菅さんである。「江田さんの社会主義は社会正義のことだった。こんどの参院選で民主党が掲げた『生活が大事』と同じではないか」と発言した。江田ビジョンはいまの民主党につながる。
江田の心残り、「政権」も手に届くところにきた。菅さんは「衆院解散に追い込んで届かなくても、また解散に追い込む。2度でも3度でも挑戦する」と述べた。3年間は変わらない参院の野党優位状況をテコにすれば、それは可能である。
ヌマさんが「無産階級」のために奔走したとすれば、社会党の末裔社民党の福島みづほ党首は「ワーキングプア」のために走り回る。働いても働いても浮かばれない格差社会。福島さん4月、東京・新宿でフリーターや派遣、過労死寸前の正社員たちの「自由と生存のメーデー」のデモと一緒に歩いた。7月、「生きさせろ!」と叫ぶ作家雨宮処凛さんらの人材派遣会社のピンハネへの抗議シュプレヒコールにも参加した。
今月24日の福島さんのパーティーで、彼女は語った。「私は弁護士のころは、市民運動にも加わって、ルンルンと生きていました。政治の世界に来るとそうはいきません。なかなか勝てないので辛い思いもする。やりたいこととやれることのギャップの感じます。政治は、巨大壮大な権力構造です。安倍さんのことはひりひりする思いで見ていました。私は、しぶとく、まっとうな社会にするためにがんばっていきたい」
完了支配でも市場原理でもなく、憲法と市民と生活を結ぶ、もう一つの政権。野党の現実は混迷に満ち、力量不足も否めないけれど、ここは大きな夢をみたい。あの「安保闘争」から半世紀になんなんとして、同じ日の昼と夜、浅沼と江田を偲ぶ集会があったのは、そんな未来図への寓意だったかもしれない。