3個収穫できたのですが、1個は試しに食いました。残りの2個です。立派なものです。美味かった!!
「イーハトーブの果樹園」 柿物語
私の果樹園の柿の木から、今年初めて柿3個が収穫できた。4年前に取得した土地に、柿3本、ミカン1本、スモモ1本、栗2本を植えたのです。その3本の柿の木のうち1本から、3個が生って、他の2本にはまだその気配がない。あと何年か必要なのだろう。栗もいくつか生りました。ミカンはまだ青い実の状態です。その土地は建築基準法上では、なかなか難しい土地で、家を建てるには手続き上難易度の高い宅地なのです。手続きさえちゃんとすればいいのですが、なかなかそうも行かず、昔から秘かに狙っていた、憧れの果樹園にしたのです。
その果樹園の名は、「イーハトーブの果樹園」です。私に今一番影響を与えている宮沢賢治さんの作品から拝借させていただいた。悪用はいたしません。賢人の名を汚すようなことは決していたしません。風や草や樹木にも、雲も、星も、意思や感情をもって、それらが物語の重要な脇役を果たすイーハトーブの世界に私も連れ込んでもらいたいのです。
かって家が建っていた部分は、樹木には相応しくない土壌なのですが、庭だった部分は、かっても花壇や木があったのでしょう、いい土なのです。果樹園を思いついて、真っ先に買ってきた果樹の苗木は、柿の木だった。桃、栗、3年、柿 8年とか、小さいときから聞かされていたものだから、イの一番に柿を植えなくてはと、思ったのです。その後、他の苗木を、思いつくまま植えたのです。
それに、私は無類の柿好きなのです。
生まれは、京都府と滋賀県の国境の山間谷間の小さな山村でした。京都府綴喜郡宇治田原町南切林が郵便物の届く住所です。主にお米とお茶(宇治茶)を作っている専業農家で生まれました。子供の頃、野原、田畑を駆け回り、山へ出かけては野イチゴ、アケビや茸類を採ったり、川では網やザルで魚をすくったり、潜ってはウグイなどの手つかみをして、過ごしました。ターザンごっこでは、ガキ仲間にいつも危険な技を見せ付けた。
そんなガキの頃のおやつはと言えば、田畑に植えられたキュウリ、スイカ、マッカ、トマト、柿、イチジクを盗んで喰うか、山に入ってアケビ、野イチゴを探して、喰うことでした。今のようにお金を持って、駄菓子屋さんやコンビニに行くなんて考えられませんでした。真夏のスイカやトマト、キュウリは喉の渇きを癒し、空腹を満たす絶好のおやつでした。家に帰れば、おにぎりかお餅だった。何もない時は、おにぎり。おにぎりは、自分で勝手に、手のひらに塩をつけてにぎるのです。餅は、だいたい一年中用意されていた。夕方、腹をすかして帰ると、祖母が餅を焼いてくれた。母は、夕暮れまで野良仕事をして、それから夕食の準備に入るので、子供の私等は待ちきれないのです。
農家の人が、汗水たらして世話をしている農作物を、内緒でいただくわけですから、盗人ということになるのですが、そこには毅然とした不文律があったのです。私は父から、そのローカルルールを伝授されていました。大人も子供も、守らなければならない、泥棒の掟(おきて)があったのです。
キュウリは変形していて、均質に育たないと思われるもの。スイカやトマトは小さくて、そのままにしておいてもまっとうに育たないだろうと思われる物で、それなりに熟している物をいただくのです。これらは、いつかは、間引かれて捨てられる物なのです。また収穫期が過ぎて、取り残されていたものをいただくのです。これらは、喉の渇き、空腹を満たす、好材料になるのです。このようなことは、田舎では皆が承知の上のことで、野良作業中、お互いに、盗み喰いを許し合っているのです。
その田畑の農産物のなかで、私は特別柿に魅かれたのです。私の「盗み食い」症状が一番劇(はげ)しく表れるのは、柿が視野に入ったときなのです。柿を見ると、人間が変わるのです。私の田舎では、柿を商品にして市場などに出すことは誰も思いついていなかった。品質の優良な柿を育ててみようとする百姓はいなかった。金になる果物として、見なされていなかったのです。でも、やっぱり、私にとっては、最高の果物でした。
そんな子供時代を過ごしてきた私だから、いまだに「盗み食い」症が抜けないのです。年を重ねてきた、いっぱしの良識ぶった大人なのに。59歳。困ったものです。生っている柿が、道路にまではみ出しているのを見ると、自然に手が動きだそうとするのです。たとえ、その柿の木が他人のものでも。必死に、両手を合わせて指をからめて、どちらの手も勝手に動かないように押さえつけるのです。
今から20年程前のことです。私は早朝5時頃自宅をスタートして、権太坂から藤塚、今井町、秋葉町、品濃町、平戸周辺をランニングしていた時期があったのです。ランニングで疲れたら、早足で歩くのです。約1時間。いつものコースに、庭先に柿がたわわに実っている農家があったのです。柿の花が咲いて、青い実になって、それが赤く色づいていくのを、しっかり観察していました。最初は羨ましかった程度だったのですが、色づいてくると、私の子供時代にきっちり培った「盗み食い」症の初期症状が表れだしたのです。その柿の木は、少し道路から奥まった所に立っていたのです。鈴なりに生っていて、枝はその重さに必死で耐えているようにも見えました。私の病気は、日に日にますます悪化していくばかりだった。真っ暗闇だった。ついにその日が来たのです。末期症状を迎えた私は、餓鬼になって1個の柿を手にしてしまったのです。柿の実を手にした盗人は、一目散にその場を離れなくてはならないと、走り出そうとしたその時、目に入ったものは、人影だったのです。暗闇のなかに、はっきりと老人を確認しました。その農家の人だと思われる老人は、早起きをしたのでしょう。早く起きて家族に迷惑をかけまいと玄関の前で縁台に座っていたのです。座って、煙草を吸っていたのです。老人は、こっちを見ていました。私の行動を見ていた筈です。でも、一瞬の出来事だったから、老人は何も反応できなかったのでしょう。私は逃げた、逃げた。韋駄天、脱兎の如く、その場からできるだけ早く、遠くへ移動しなければならなかった。足がツッた、心臓はバクバクして破裂寸前。その時に、決心したのです。二度と「盗み食い」はしまいと。私はいつまでも、懲りないと改めない、生半可な人間なのです。
柿にもいろんな種類の柿がありました。正確に何種類と答えられる者はいないそうです。700種類とか、1000種類とか、言われている。田舎にあった渋柿はツノコ(正式名称はツルノコ)と、呼んでいた種類が一番多く、それ以外にもいろいろあった。甘柿では、富有柿、次郎柿、チンポ柿(たまたま、学生時代に読んだ小説で、今 東光さんが題名に使っていた)は、どこにでもある種類のものだった。が、その本当の名称は、名無しの権兵衛で、田舎ではただ「甘柿」とだけ呼んでいた。今、思うに、ひょっとして今 東光さんの受け狙いの造語かもしれません。作家はうまいこと、嘘をつきますから。
渋柿は渋をとるのに使われるのと、干柿にするものに分かれるのです。
百姓は、冬を迎える鳥のために、どの木にも幾つかは実を残して置くのです。その残された柿のなかでも、鳥が見逃したラッキーな柿の実は、秋が深まり霜がおりる頃、果肉は真っ赤なゼリー状に結晶するのです。このようになった柿のことを、熟柿(じゅくし)と言います。結晶化した果肉の美しさは、今でも懐かしく思い出されます。それが、オイラのおやつなのです。今、市販されている森永さんか明治さんのゼリーと比べたら、月とスッポンの違いです。半熟になった実を、鳥に食われないうちに収穫して、米のモミガラの中に入れて、果肉を完熟させる方法もありました。
浪人時代のことです。私の母の実家には、背丈10メートル程の柿の木があって、実が採りごろになっても、それを誰も採ろうとしないことを知った私は、1週間に1度の割りで出かけていった。2階建住宅ほどの高い木に登って、柿を竹籠に入るだけ入れて下りてくるのです。木登りは、幼児のときから、歩くよりもハイハイの次におぼえたようです。秋、切林(自宅の在所名)と名村(母の実家のある在所名)の間を、何度も往復するのでした。この柿はチンポ柿と今 東光さんが言っていたものです。1日に20個は食っていた。実は大きくなくて、種が幾つも入っているので、食べられる部分は少しなのです。皮をむかないで、そのままがぶっと噛るのです。
柿根性と言う言葉があるように、柿の枝はもろく、肝を冷やしたことは何回もありました。反語は梅根性だ。こいつは、精神的にしぶといってことだろう。
この頃から、私は柿の虜(とりこ)になっていったのです。親戚の間では、完全に変人扱いでした。へい、私は柿食人です、と言っていました。でも祖母だけは、あんまり食べ過ぎると、体が冷えるから気をつけなさいと気をつかってくれた。
大学に入れなくて、ドカタ稼業に身を染めた。仕事を終え、夕方には必ず酒を飲むのです。卑猥な言葉を無理して使って、無理して多い目に飲んでは、管を巻いた。受験がうまくいかなかったことを文部省のせいにしたり、ヴェトナム戦争に対する政府の対応を批判したり、学園紛争にやたら共鳴したり、深酒するためのネタには事欠かなかった。ドカタ仲間で飲む酒の量は半端ではない。
そして、必然的に苦しい二日酔いの朝を迎えるのです。ガンガン、頭が痛い。のどが渇いて、かあらっから。吐き気がする。胃が痛い、腸もやられて、ぴ~。そこで、また柿なのです。酔いさましに、私は柿をかっ食らうのです。救いを求めて、すがるように。阿修羅の如く、柿を食い続けるのです。柿が二日酔いに効くんですよ、と効かされていたものだから、盲信した。ずうっと後に、柿に含まれるタンニンが、アルコールの吸収をうまくコントロールして悪酔いを防いだり、血圧降下作用もあるのだと知った。またカリウムは、アルコール分を早く体外に出す働きをするのだということも知った。
大学になんとか潜りこめた。勉強のことは、そっちのけでサッカー一筋の学生生活だった。激しい練習に明け暮れ、食っても食っても、ヒモジイのです。毎日、いつも満腹状態にしておかないと、頭が変になるのです。でも、腹を満たすにも、資金が必要なのです。貧乏だった、素寒貧だった。そんな時に、田舎の父から送られてきた柿は、私を有頂天にしてくれた。うれしくて、涙が出た。不揃いな柿が、ダンボール箱に100個ほど入っていた。一人、ニタニタしながら1日10個づつ食った。
私の田舎は、お茶が特産なのです。宇治茶です。滋賀県に近い湯屋谷地区という集落があって、そこで永谷宗円が、室町時代に緑茶の製法を考案した。千利休の茶室も、元はこの地で作られたのです。これほどお茶に関しては立派な土地柄なのです。お茶の聖地とでも言いましょうか。でもここは、お茶を語る項ではないので、これで終わりにして、柿物語に戻ります。
渋柿は、渋をとる方にまわされなかったものは、干柿にするのです。その干柿のことを郷里の有志が作った小冊子に載っていたので、その文章を紹介します。郷里で作る干柿は、果肉を完全に天日で干しきるのです。だから、歯ごたえはあります。そして、白い粉が噴いてくるまで、ザルであおるのです。そうしてできた干柿を、郷里ではころ柿と呼んでいました。お正月などには、神棚に餅に並べて供えます。
古老柿(ころがき)伝説「美女石」 (孤娘柿)とも。 宇治田原茶業青年会が編集。
『古老柿。秋になると、澄み切った秋空のもと、あちこちで(ぽきん、ぽきん。)と枝を折る乾いた音が青空にこだまします。稲刈りも既にすみ、秋祭りも終わってほっとした頃。お正月にそなえて宇治田原の町では、古老柿作りが始まります。そんな古老柿にまつわる伝説をご紹介しましょう。宇治田原の柿は枝もたわわに実るとても美しい眺めでしたが、どうしたことか甘い柿が少なかったのでした。村人たちはいろいろ工夫しましたが甘くはならず悩んでいました。ある日、一人の少女が道端にたおれていました。話を聞くと空腹と疲労で持病が出たらしく、かわいそうに思った村人は一所懸命に看病し、そのおかげで少女はすっかり元気になりました。そして柿が渋くて悩んでいることを話すと、少女は、村人に渋柿を甘くておいしい柿にする方法を教えてくれました。それは、一面に白い粉がふいたまるいコロコロした柿で、口に入れると、とても甘くおいしいものでした。
村人がどうしてこんなに甘い干柿ができるのかと感心している間に、少女はにっこり笑って名前も告げずにお礼だけを言って立ち去っていきました。村人は不思議に思い、そのあとをしのび足でつけていくと、少女はお寺への坂を上がって姿を消してしまいました。』
渋柿の渋みを抜いて食べる方法もあるので、紹介したい。
渋柿を40度ほどのお湯に半日から1日ほど浸けるか、焼酎に浸けるなどして、渋みを抜く方法があります。湯に浸けるやり方は、果肉が柔らかくなったり、表面が傷つきやすいので、あまり出来ばえはよくないのですが、一番手軽です。また、一度に大量に作れる利点があります。焼酎に浸けるやり方は、一番グッドに出来上がりますぞ、上品な味を楽しめます。このように渋みを抜いた柿も、食った、食った。