巨人軍の木村拓也内野守備コーチは、4月2日の対広島1回戦の試合前の練習中に倒れた。くも膜下出血だった。7日、広島市内の病院で亡くなったのです。
今季から巨人のコーチに就任した木村拓也(37)の急死の新聞記事を読んで、この木村拓也の今までのキャリアと人柄に興味をもった。やはり、彼を紹介した記事を、マイファイルしておかなければと思って新聞記事をそのまま転載させていただいた。私は、この木村拓也の名前もキャリアも今回のことで初めて知った。多くのファンに愛された理由がよく解った。惜しい野球人を亡くしたものだ。
これからは、私の野球四方山(よもやま)話です。
スポーツ好きな私でも、プロ野球に関してはいまいち冷めていて、心底から熱狂できない。不幸なことに気分が乗らなくなってしまったのです。気分が乗らないのは、特に巨人に関してね、と注釈が必要かも知れない。巨人に対しては、氷の心なのです。
私自身はサッカーにプレーヤーとして入れ込み過ぎた。だからといって、サッカー以外のスポーツ全てに興醒めした訳ではないのですが、思春期?に、プロ野球を運営する事業法人の幹部らの嫌らしい言動を報道などで垣間見たのが、いけなかったのかもしれない。元凶は巨人だ。私が精神的に成長していく過程、60年安保から70年安保、それからシラケ時代に歩調を合わせるように、読売ジャイアンツの我が儘、独り善がりの身勝手、厚顔さが目立つようになり、心はプロ野球から遠のいた。最終的には江川問題だ、これが致命的だった。その後、私が分別を多少なりとも持ち合わせる年齢に達してからでも、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)だけは好きになれない。修復が不可能なままだ。お互いに不幸な運命になってしまった。
小学生の多分5,6年生の頃から、それからの中学、高校時代は、南海ホークスの試合結果だけは新聞を食い入るように読んだ。南海がやる試合のテレビ中継などなかったのです。私にだって、プロ野球に夢中になっていた時期もあったのだ。蔭山監督から鶴岡監督、飯田監督、野村のプレーイングマネージャーから監督時代、捕手としての野村、広瀬、穴吹、小池、杉浦、スタンカ、皆川、岡本等が活躍していた1955年から1965年辺りまでは熱烈な野球少年だったのです。それからも、南海熱は冷めなかった。南海以外には、阪神が好きだった。近鉄、阪急も好きだった。全て在阪球団だ。否、広島や中日も好きだった。既に此の頃から、在京球団、特に巨人嫌いになる素地は整っていたのかもしれない。
この文章の意図するところとは、少し外れるが、その頃の巨人には、その後の野球界において指導的な役を担うことになる数々の好選手が次々に現われた。藤田、広岡、長島、森、国松、王、柴田、城の内、土井、須藤、宮田らだ。素晴らしい選手のオンパレードだった。
(昨年9月、対ヤクルト戦で捕手を務めた)
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20100413
朝日・朝刊/スポーツ
EYE/プロ野球を変えたあなたへ
編集委員・西村欣也
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あなたはプロ野球の概念を変えた人かもしれません。木村欣也さん。
きらびやかなスターを見ようと人々は、スタジアムに足を運び、テレビの前に座る。あなたはスターを輝かせることを自分の役割とした。そのことでファンの共感を得ていったプレーヤーでした。
日本ハムへの入団はドラフト外。支配下選手登録枠からもれ、任意引退選手扱いになったこともありました。「ちょっとでも、すきがあったら自分はそこへ行く。それしか自分の生きる道はない」。あなたの口癖でしたね。
広島へトレードされて、スイッチヒッターに転向する。捕手から外野手にコンバートされたが、投手以外のあらゆるポジションをこなしましたね。ユーティリティー・プレーヤーという言葉はあなたのためにありました。
巨人へのトレードは意外だったでしょう。「よりによって、一番戦力の厚い所へ行って、出番があるんだろうか」。あなたはそう話していました。
が、原辰徳監督は木村拓也という」プレーヤーを必要としていました。2008年5月の日本ハム戦で故障欠場した小笠原道大に代わって3番で出場して、先制本塁打を放ちました。めったに立つことがないお立ち台でした。
「巨人は主力がいなければ勝てないのか、と思われたくなかった。だから絶対に勝ちたかった」。インタービューを覚えているファンも多いでしょう。
昨年9月のヤクルト戦で捕手が負傷でいなくなり、1999年以来のマスクをかぶったシーンも、あなたの人生を象徴していましたね。「困った時の木村拓也」でした。「巨人が弱いときに来て、強くしてくれた選手」。あなたがいなくなった今、原監督の言葉をかみしめる日々です。、