2010年4月2日金曜日

指導者の言動は、影響が大きい

野球ファンならずとも、この季節のスポーツといえばやはり選抜高校野球だろう。

郷里を離れてから四十余年も経っているのに、自分の出身地の出場校の勝ち負けがどうしても気になって、できたら最後の決勝戦まで身贔屓に応援したいと思う。未だにお上(のぼ)り意識が抜けなくて、東京都や神奈川県なんて、糞喰らえだと思ってしまう。今回は京都からは立命館宇治高だ。この学校は、源氏物語の舞台にあるのです。今はもうなくなってしまったが、私の卒業した学校の隣、近所だ。今回は、残念ながら1回戦で広島の古豪広陵に惜敗した。無念だ、夏の大会の捲土重来を期待しよう。

広陵ー立命館宇治戦の記事を読み終わって、悔しい想いにふけっていた。紙面への視線を横にずらすと《アルプス席》とタイトルがつけられた囲い記事が目に入った。「熱戦の価値に水さす言葉」だ。

この記事を読んだ後、私の胸の深奥部に苔付いていた思い=「子どものスポーツの世界において、いかにバカなコーチや監督が多いか」ということを言い出さずにはいられなくなった。その前に記事そのものを転載する。

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20100323

朝日・朝刊

スポーツ

山田佳毅

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残念な言葉を聞いた。「全国で恥をかいた。末代までの恥。〈悔しいのは〉21世紀枠に負けたことです」開星高校の野々村の監督のコメントだ。21世紀枠で選ばれるのは、必ずしも秋の地区大会で好成績を収めたチームではない。一方、開星は昨秋の中国王者。とはいえ、相手の実績によって自らの勝敗に価値をつけるような姿勢は間違いだ。

そもそも、21世紀枠の出場校は「常勝チーム」ではない。2001年の宜野座〈沖縄)、09年の利府(宮城)は4強まで勝ち進んだ。08年は出場した3校が、いずれも初戦を突破している。

日本学生野球憲章は、野球を通じてフェアプレー精神を身につけることを理念に掲げる。そこには互いに健闘をたたえ合う潔さも含まれる。

敗退直後、冷静さを欠く気持ちは分る。ただ、心ない言葉は、必死に練習を積んだ両校の選手、応援した人々、すべての気持ちを踏みにじってしまうのを忘れないでほしい。

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この事件をしたためて記事にした記者に、朝日新聞に敬服する。一般紙においては、監督のコメントをここまで詳細に報道していないものもあった。この記事を朝、読んだ時は瞬時にカッチ-ンと頭にきた。私得意の瞬間湯沸かし器だ。夜のテレビでは、この監督の発言と彼が学校で受け持っている美術の授業風景や、野球部の毎年の卒業生の似顔絵を自分で描いて贈っている光景が映し出されていた。学校内での監督は、真面目で個性豊かで、人間味の溢れた教員であることを知って、ひとまずは、ホッとした。猛烈に、真剣に野球を指導されていた。

その後の報道で、この監督さんが野球部の監督を辞任されたことを知った。自分でけじめをつけられたのでしょう。これで、良かったと思う。この事件でことの重要性を、監督の教え子も相手校の生徒も充分勉強したことだろう。

私は、20年ほど前に、地元の自治会が作ったサッカーチームの指導を依頼され、3年間、毎週日曜日に練習や試合にと子ども達と接した。幼稚園児から中学生までの子どもを各年代に分けて指導を行なったのです。幼少年期の子どもを、スポーツ好きな子どもになって欲しい、指導を間違って、スポーツが嫌いになったり心身に傷つくようなことのないように、そんなことを必死で考えて指導していた。

ここで、私が指導者として心がけたことのその一は、練習や試合において参加者全員が絶対、機会均等であるべきだと考えたことです。すべからく、練習も試合もその考えに則って運営すべし。ちょっとばかり巧い子どもの親は、できるだけ試合に出ている時間が長いことを望み、足が遅い子や臆病な子どもの親は、とかく遠慮がちになる。どの子も、試合に出てボールを蹴りたがっているのは、同じなのに。

その二は、負けても勝っても、自分たちのチームと相手チームの何が良かったのか、何がまずかったのかを必ず話す機会を作ったこと。その際、自分たちのチームメイトの悪口を言うことが、否応なしに発生するのですが、その時こそ、気分の好いコミュニケーションがとれるように、その役を担った。チームの仲間を、同じチームの仲間同士として、お互いにどう作用し合えば、いい効果が生まれるのか。相手チームの自分たちより秀でたところは、相手を堂々と褒める。良かったこと、良くなかったことを、子どもの視点レベルで理解させることでした。

その三は、観戦する親たちに、子どものプレーに対して非難めいたことを絶対言わせなかったことでした。ただの観戦だけの関係者にも、子どものプレーを褒めることは大いに結構だけれど、批判めいたことを言った人には、噛み突いて叱った。その時こそ、私は鬼になった。強い子は大人に叱らても平気の平左衛門でいられるが、子どもによってはダメージを受け、そのダメージが健康な精神を損ねることだってあるのだ。自分の子どもが人並み以上に巧いと思い込んでいる親は、ことあるごとに、私には理解できない言葉を発したり、変則的な行動をして、私を苛立たせた。

長く指導をしていて、練習や試合を重ねるうちに、親たちの目が変わってくるのに気付いて怖くなったことがある。自信満々の親が一人、二人と発生するのです。自分の子どもは他の子どもより巧いんだ、と本気で思い込んでしまう人が出てくるのです。本質的に何も違いがないのに。その人等の顔には、自分の子ども以外の子はうちの子より下手なんだ、と描いてある。

知らず知らずに出る言葉で、誰もが絶対子どもの前では慎まなくてはならない禁句がある。それは「何をやってるんだ」の一言です。この言葉こそ、何の意味もなく、選手を戸惑わせ、傷つけるのです。「何をやってるんだ」ではなく、早く走れとか、早くスタートしろとか、前に強くボールを蹴れとか、具体的なことを指示することこそ大事なのだ。高校生以上ならば、プレー中は以心伝心もある、ビデオやテレビで高度な試合を観ているし、本も読んでいるので知識が豊富なのだ、「何をやっているんだ」と言われても理解できるのです。

子どもに向かって、「お前は、何をやっているんだ」、こんなバカな繰言を言っている指導者は最低だ。でも、この手の指導者が、特に子どもを指導する世界において、実に多いのです。この素人アホ監督が害にも毒にもなるのです。

ここまでは、私が指導をしていた時に留意していたポイントだ。

監督らしい指導者が、聞くに堪えられない発言を、憚(はばか)ることなく得意満面で、子ども達に間違ったことを、言わなくてもいいことをつらつら話していることを、聞きたくもないのに聞かされる機会が多かった。これは、なにもサッカーだけのことではない。内容については、指導者ごとに千差万別だが、スポーツの本分からは随分遠い内容のものが多いのだ。監督と言われて、何か特別な存在にでもなったのか、と誤解しているのでしょう。

私は、この類のことで、一つでも非難を受けようものなら、潔く、その役を降りようと思っていた。子どもに良くないことは、絶対行なってはいけないのだ、と腹が据わっていた。