2010年4月4日日曜日

フランシーヌの場合は

20100330。

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自動車のラジオから、昼の番組で、某放送作家が女性アナ相手にがちゃがちゃ喋っていて、本人が勝手に自分で面白いと思い込んでいるのでしょう、しつこく、「今日はですね、『フランシーヌの場合はあまりにお馬鹿さん。3月30日の日曜日』、とつい口ずさんで、今日の30日を日曜日と思い込んでしまって、会社を休んだ人がいるらしいよ」なんてことを言って、笑いをとろうとしていた。

そう言えば、私もよくこの歌をかって口ずさんだものだ。1969年のことらしい。私が大学2年生の6月、新谷のり子さんが歌って随分ヒットしたのでした。私は、フランシーヌさんは、きっと名前のイメージからフランスの女学生で、学生運動のデモか何かの闘争で、警察権力との衝突の中で亡くなったのだろう、と勝手に漠と理解していた。樺美智子さんのフランス版ぐらいにしか認識していなかった。

当時の私の自前のエネルギーは、70%がサッカーに、10%が学校の勉強に、10%は読書で、残り10%で寝食、脱糞、排尿、その他?(その他と言っても何もない)に遣っていたのです。そんな日常だったので、この歌に不思議に惹かれながらも、それ以上の関心はどうしても涌かなかった。体育局のサッカー部に所属しながら、人前ではノンポリを装い、心情は全共闘シンパだった。

そして、この1ヶ月程前(20103月の初め)に、新谷のり子さんが大阪の釜ケ崎に定期的に出かけ、ボランティアで活躍されていることを朝日新聞の特集記事で知った。新谷のり子さんは元々、反戦や学生運動に関心があって、あのような歌に恵まれたのか、あの歌を歌い出だしてから反戦や学生運動に関心を寄せるようになったのか、それを知りたかった。

テレビに映る新谷のり子さんは、あまりにもあどけなく、危なかしい程か弱く、可憐で、反戦や学生運動なんかとは縁遠い人のように思えたのです。

そして今回のラジオ番組を聴いて、今度こそは、フランシーヌさんのことを聞き捨てられない。知らないままで死ぬわけにはいくまい、と思った。

有り難いことに、ネットで識者が書き込んでいるのを摘(つま)み食いさせていただいて、マイファイルしておこう。

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月刊「記録」さんのブログから抜書きさせていただきました。

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フランシーヌ・ルコントという30歳の学生(女性)が1969年3月30日にパリで焼身自殺をした。自殺の際にナイジェリアのビアフラ飢餓に関する記事の切抜きを持っており、また死んだ場所がベトナム戦争当事者が話し合っていた拡大パリ会談の付近であったことからベトナム戦争およびナイジェリアのビアフラ内戦に抗議しての自殺とみられる。

ベトナムはフランスが旧宗主国だからフランシーヌが心を痛めていたのはわかる。ビアフラ飢餓《難民》はイボ族を中心としたビアフラ共和国設立という分離独立運動を認めないナイジェリア政府軍などとの戦いの結果として大量に発生した総数約200万人ともいわれる。フランスのドゴール大統領はビアフラ側に好意的で武器の供給などで支えた。

フランシーヌは精神的に障害を負っていたとも推測され真意は今ひとつハッキリしないが焼身自殺までして政府の対応を指弾する雰囲気がフランスに充満していたと想像するにかたくない。前年の68年はフランス5月革命が発生している。労働差別や反戦、大学の自治などを要求した学生と労働者が1千万人規模でストライキとデモを打ち、ドゴールは軍を治安出動させる一方で要求をかなり受け入れた。似た動きは日本でも70年安保闘争で見られ、アメリカのウッドストックの原動力にもなった。

ビアフラ戦争は結局フランシーヌの死の翌年にビアフラの無条件降伏で終わった。その処理にあたった一人がイボ族に比較的近いキリスト教系のヨルバ族出身のオルシェグン・オバサンジョ。現在の大統領である。

私は25年程前に、アパートを探していたあるナイジェリア人と親しくなり、その友人から友人へと、私とナイジェリア人との交際の輪は広がったのです。日本に来ているナイジェリア人の間で、特に横浜地区においては、アパート探しは先ずは私に相談するように、ということになっているようです。ナイスボーイもいれば、バッドボーイも多いのですが。

25年前に最初に知り合った彼とは、真剣に付き合った。ナイジェリアの国情について、政治、産業、資源、民族、言語、気候、食事から住居まで話してくれたのですが、政情のことについて話す時は必ずといっていいほど顔を渋面にした。長く軍政だったこと、民政になっても少しも政治が良くならないこと。政治家や高級官僚たちは、多国からの援助金を自分たちのためだけに使い、もしくは横領したり、石油や金などの地下資源も豊かなのにその権利は彼らが占める、そんな具合なので、国はいつになっても良くならないのです、と嘆いていた。

高校の卒業式の記念写真のようなものを見せられて、彼が写真に写っている顔に指差して、次ぎ次ぎに、ダイ(死んだ)、ダイ、ダイ、ダイ、ダイと言った。全員で50人位なのに、死んだのは7~8人もいた。ビアフラの内戦に兵として狩りだされ、死んでいった仲間のことだった。