2008年12月15日月曜日

映画「私は貝になりたい」を観てきた

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弊社は、東京テアトル株式会社の大株主だ。株主優待券を、大いに振り回して観に行ってきた。勿論、仕事を終えてからの、私の特別時間だ。

終戦から13年後、戦争の悲惨な記憶が薄れ、日本が高度成長に入りかけた昭和33年(1958年)に、フランキー堺主演でこのテレビドラマが放映されたそうだ。その時分から、技術革新によって様々な家電製品が新発売され、好景気のあおりを受けて、一大家庭電化ブームがつづいた。テレビは家庭の娯楽の王座におさまった。私は10歳、小学4年生か5年生の頃だった。世の中の動きになど何も判らないまま、立派な洟垂れ小僧として元気に成長中でした。

ドラマのタイトルに、子供の心は強烈な刺激を受けたようで、「私は貝になりたい」、この名セリフを、遊びの最中にも言ってはふざけたものでした。だが、そのテレビドラマをライブというかリアルタイムで観たことの記憶はないのです。我が家には、まだテレビが無かった時期だからです。お隣の家のテレビを見せて貰った記憶もない。

テレビのドラマが放映されてから1年後(1959年)に、同じフランキー堺さん主役で映画化された。きっとこの映画をその後、学校の講堂で映画鑑賞会として観たのだと思う。5年生か6年生の頃だった。ストーリーや場面の端々をはっきり記憶しているのですから。小学生の頃、一年に一度か二度、映画とかバレエー、人形芝居とかの鑑賞会が学校の年間行事として行われた。私の極上の楽しみの一つでした。松山バレエー舞踊団だったり、宮沢賢治の物語「風の又三郎」の映画だったりした。昨夜、付き合いの長い関君と、仕事の打ち合わせ後酒盃を何度も交わした。子供の頃の学校での映画鑑賞会の話を切り出した時、彼が言うには、「小学生の頃、学校に映画がよく巡回してきたんだよね。例えば『風の又三郎』だとかさ」。当時、田舎の学校廻りの映画会で持ち回られた定番は、この映画だったらしい。私が唯一、映画鑑賞会で観た映画で憶えているのは、「風の又三郎」だけだったのです。関の出身は新潟県は南魚沼郡湯沢町だったし、私は京都府綴喜郡宇治田原町だった。どちらも、都会から遠い寒村だった。

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ここで、観てきた「私は貝になりたい」の映画の内容をまとめておこう。

遺書・原作/加藤哲太郎、「狂える戦犯死刑囚」

監督/福澤克雄

出演/中居正広、仲間由紀恵、西村雅彦、平田満、武田鉄矢、泉ピン子、草なぎ剛、笑福亭鶴瓶、石坂浩二(失礼を省みず、知っている俳優さんだけを列挙した)

物語(パンフレットより)

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「戦犯容疑で逮捕します」。豊松にとってその言葉は、まさに晴天の霹靂だった。

清水豊松は高地の漁港町で、理髪店を開業していた。家族は女房の房江と一人息子の健一。決して豊かではないが、家族三人理髪店で何とか暮らしてゆく目鼻がついた矢先、戦争が厳しさを増し豊松にも赤紙=召集令状が届く。豊松が配属されたのは、外地ではなく、本土防衛のために編成された中部軍の部隊だったが、そこで彼は、思いも寄らない過酷な命令を受ける。

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終戦。---豊松は、やっとの思いで家族のもとに戻り、やがて二人目の子供を授かったことを知る。平和な生活が戻ってきたかに思えた。しかし、それもつかの間、突然やってきたMP(ミリタリーポリス)に、従軍中の事件の戦犯として逮捕されてしまう。そして待っていたのは、裁判の日々だった。「自分は無実だ!」と主張する豊松。だが、占領軍による裁判では、旧日本軍で上官の命令がいかに絶対であったか判事には理解されず、極めて重い判決が下りる。

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豊松は収監された巣鴨プリズムで、聖書を熱心に読む死刑囚の大西や、事件の司令官だった矢野中将と交流を持つが、無情にも彼等に刑が執行されていく。

妻の房江は船と列車を乗り継ぎ、遠く離れた豊松のもとを訪れる。逮捕後に生まれた初めて見る娘の直子、妻・房江の泣きそうな顔。そして気丈にふるまう健一。豊松は「帰りたいなあーーーみんなと一緒に土佐へ」と涙を流し語りかける。

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無実を主張する豊松は、同房の囚人西沢の協力でアメリカの大統領に宛てて減刑の嘆願書を書き始めていた。やがて結ばれる講和条約で釈放される。誰もがそのことに希望をつないでいた。

一方、故郷の高地に戻った房江は、来る日も来る日も必死の思いで嘆願書の署名を集めるのだった。豊松の帰ってくる日を信じてーーー

*つぎに、私の映画についての感想だ。

いい映画だった。名人とも言われている橋本忍氏の脚本も、回を重ねるごとに、ますます円熟味は増しているのだろう。過去の作品をこの場で、見比べているわけではないので、詳しくはコメントできない。名人・橋本忍は、能力の高い人だと思った。最初から最後まで、観る者を飽きさせなかった。監督・福澤克雄の、映画作りに賭ける真面目さは痛いほど実感できた。豊松役の中居正広の、ひたすらな演技には好感がもてた。演技については、いろいろ指導はされたのだろうが、スタッフの熱意に応えようと一所懸命に演じていた。そして、要所要所に、存在感ある俳優さんが配されていて、全体に緊張したまま見終えることができた。笑福亭鶴瓶さんだったり、石坂浩二だったり、ピン子さんだったり、武田鉄矢だった。美しい日本の風景が彩られている。絞首刑を控えた豊松の苦しみ、獄から放たれて一緒に暮らす生活を取り戻したい、そんな思いに海が共感するように、青く大きくうねる。土佐の高知にもこんな雪深い山々があるのかと場違いに思えたけれども、女房・房江の夫を救うためのひたすらさを、その冷たく白い雪が際立たせていた。

そこから私の思いは、どうしても極東国際軍事裁判に向かう。当時、この裁判はどのように行われ、その内容はどうだったのだろうか。それから、60年経った今、この裁判が何を教えてくれているのか、学習するにいい機会を得たと思った。

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今日は2008年12月3日だ。このテレビドラマを再映画化されたのは50周年を記念しての企画だとは聞かされた。東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決がくだり、A級戦犯が処刑されてから60年目にもなるのです。米英中が日本に降伏を勧告したポツダム宣言に「吾等の俘虜(ふりょ)を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰をくわえるべし」とあるのが、この裁判が行われた根拠。

裁判では、5人の判事は個別的に意見書を提出した。ウェップ判事は、「戦争を開始するには天皇の権限が必要だった」と言及。反西洋帝国主義の人と言われ、インド代表の判事パルは、東京裁判は後で作った法規で指導者を裁くのは問題があるとし、多数判決を全面的に批判し、被告全員の無罪を主張した。オランダのレーリング判事は、公正さを貫いた人だった。

広島、長崎への原爆投下や都市への無差別爆撃のような連合国側の戦争犯罪は、何故審議されなかったのだろうか。

081210の朝日夕刊の記事によると、国立公文書館が所蔵する資料で、日本の弁護団は当初、終戦時の鈴木貫太郎首相を証人に呼ぼうとしたが、天皇への波及を恐れる声が内部にあり、結局は断念した事実が分かってきた。いかなる形でも、天皇を法廷に立たせないという絶対方針だったようだ。

私達はA級戦犯の判決が出て、7人が絞首刑に処されたことは、よく知っていたのですが、BC級戦犯でも死刑に処された者がいたとは、私は知らなかった。それに、これは私一人の勉強不足か、どこかで誤解したのか、A級戦犯と聞くと、犯罪としての悪質度が一番高くて、BC級は悪質度では二級品であったり三級品だったのだ、と思い込んでいた。このA,B,Cは裁かれた罪の種類だったことを、今回学び取った。この裁判で、裁かれた罪は次の三つである。A、侵略戦争を計画・開始・共同謀議したとする「平和に対する罪」 B、通常の戦争犯罪 C、政治的人種的迫害などの人道に対する罪、だったのです。

学校では、A級戦犯のことしか教えなかったのではないか。A級だけがシンボリックに扱われていたように思う。A級戦犯の起訴人数は28人、死刑判決7人、終身・有期刑は18人、死亡・棄却は3人でした。が、BC級戦犯起訴人数は5644人、死刑判決934人(執行920人)、終身・有期刑は3413人、無罪は1018人、死亡・棄却は279人だった。この数字を見ても、いかにBC級戦犯が多く、又極刑に処された者の多かったことに驚かされた。

この東京裁判60年を機して朝日新聞が社説でとりあげた。

この記事の内容は、この裁判は十全ではなかった。裁判の経緯や結果において、複雑な問題を抱えていながらも、今、世界で起こっている問題や今後起こり得る事件の処理にあたって、教材としての役割りを担わせられている、と。

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朝日朝刊・社説

東京裁判60年

歴史から目をそらすまい

極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判の判決から60年がたった。第2次世界大戦後に日本の戦争指導者を裁いたこの国際裁判は、東條英機元首相ら7人を絞首刑にするなど、日本の政治家や軍の幹部25人を厳しく断罪した。

はるか昔の裁判だが、今も厳しい論争の的だ。日本の過去の植民地支配や侵略を正当化した田母神俊雄・前航空幕僚長の論文でも、東京裁判で認定された日本の戦争犯罪が、今もいわばマインドコントロールのように日本人を惑わしていると批判した。

東京裁判をどう見るかは、有罪となったA級戦犯を合祀した靖国神社に首相が参拝することの是非と結びついている。政治と不可分の問題なのだ。

東京裁判となると、とかく議論が熱くなりがちだ。だが、私たちがまず確認すべきことは、東京裁判が極めて複雑な問題だという冷厳な事実である。「勝者の裁き」か「文明の裁き」かという二元論で、万人の納得いく解釈はできない。それを単純化して白黒はっきりさせようとするところに、実は大きな落とし穴がある。

論点を整理しよう。東京裁判に問題があるのは事実である。戦争が行われた時点では存在しなかった「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で裁くことは、法律学でいう事後法にあたりおかしいという批判がある。日本の戦争犯罪は裁かれたが、米軍の原爆投下は審理されなかった。連合国側だけで判事団を構成した。被告の選び方も恣意的だった。

その一方で、この裁判の意義も忘れてはならない。裁判を通じて戦争に至る道が検証され、指導者の責任を問うた。そのことで、戦後日本社会は過去を清算し、次に進むことができた。

また、独立回復に際してこの裁判を受け入れたことで、国際社会への復帰を果たした。東京裁判はナチスドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判と並んで、戦争を裁く為のその後の国際法の発展に寄与した。

こうした両面をそのまま受け入れる必要がある。欠陥に目を向けつつ、この裁判が果たした役割を積極的に生かすのが賢明な態度ではなかろうか。

なぜならば、裁判が十全でなかったからといって、日本がアジア諸国に対する侵略を重ね、最後は米国との無謀な戦争に突入し、膨大な人命を失わせた事実が消えるものではないからだ。日本に罪や責任がなかったということにはならない。都合の良い歴史だけをつなげて愛国心をあおるのは、もう終わりにしたい。グローバル化は進み、狭い日本の仲間うちだけで身勝手な物語に酔いしれていられる世界では、もはやない。

悪いのは全部外国だ。そう言いつのるだけでは、国際社会で尊敬される日本がどうして築けるだろうか

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そして、来年5月から始まる司法改革の一端、裁判員制度の導入だ。候補者29万5千人に候補者通知が、昨日から今日にかけて各家庭に届けられている。有権者352人に1人の勘定になる。選(よ)りによって親子とか上司と部下に届いたり、81歳の高齢者にも届いているとの新聞報道があった。裁判員に求められるのは、法の専門家が忘れがちな生活実感と、上級審や判例の意向にとらわれない目である。もともとプロに足りない部分を期待されているのだから、素人丸出しで、遠慮せずに物を言えばいい、と朝日組系天声人語親方は言ってくれているので、選ばれたときには精一杯努力しようではないか。

この裁判員制度の詳しい説明の新聞や雑誌の記事、パンフレットを昨今見る機会が多い。関連して、死刑についての是非論も喧(かまびす)しい。

この死刑存廃問題は、大きいなあ。

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この稿を綴っている過程で、学び取ったBC級戦犯の裁判の内容が、映画「私は貝になりたい」のプログラムのなかで、田中宏巳氏(元防衛大学教授)がタイトル「BC級戦犯裁判の全容」で寄稿されているので、この文章を読んで認識を深めたい。特に若者達に、真実をを学んで欲しいのです。

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BC級戦犯裁判の全容

田中宏巳(元防衛大学教授)

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戦犯裁判が行われたのは,第二次大戦が最初である。日本は世界初の核兵器の洗礼を受けたが、世界初の戦犯裁判もドイツと並んで受けた。

戦争裁判の動きが表面化したのは第一次大戦のことで、英仏両国が独皇帝カイザーとオーストリヤ皇帝カールを裁判にかけようとした。しかし亡命先のオランダ及びスイスが身柄の引渡しを拒否し、裁判は不成立に終わった。大国とは言えないオランダとスイスがノーと言えば、道義的に自信がなかった英仏両国も引き下がる他なかったのである。

裁判には法の存在と刑を執行する権力が必要である。第一次大戦後、戦犯裁判になる国際法や国際的合意事項が成立し、第二次大戦になると、強大な軍事力を背景にアメリカという独善的理想を掲げるスーパーパワーが登場し、違反を取り締まり、刑罰を科す強制力の役割を買って出るようになった。大戦後のアメリカは「世界の警察官」と呼ばれるようになったが、その最初の仕事が戦犯裁判の実施であり、各国裁判への指導であり、刑の執行であったといってよい。

戦争裁判で判決基準にされたのは、1899年何度も改定された「ハーグ条約」、1929年に俘虜取り扱いを定めた「ジュネーブ赤十字条約」、1919年のパリ平和予備会談で示された15人委員会が定める「戦争犯罪項目」等であり、国際法を批准するか、委員を出した国家には法を遵守する義務、あるいは合意を尊重する道義的責任があり、日本はいずれにも関係していた。

戦犯裁判の根拠になった国際法は、強制力をともなわないために、法の前の平等をうたった万民法ではなく、国家の都合により解釈が変えられた。そのため同じ罪を犯しても、勝者は裁かれず敗者のみが裁かれることになった。戦犯裁判は、誰彼に関係なく犯した罪を公正公平に裁く理想とは大きくかけ離れ、、そのため裁かれた日本兵から、裁判を日本に対する報復、復讐であると非難する声が上がった。ジャワの日本軍が、勝者の軍人だけで審理される裁判を「軍法会議」と呼んだが、的を射た表現である。「軍法会議」と考えれば、不条理な裁判になっても納得できる。

裁判では、勝者の法解釈、国内政治、戦争の進め方、文化及び伝統といった諸要素が影響を与えた。第一次大戦の独ツェッペリン飛行船による都市爆撃を受け、「戦争犯罪項目」の第十九項に「無防備地域を故意に砲爆撃すること」が挿入され、都市爆撃は犯罪になった。戦後、都市爆撃を犯罪と考えた日本の重爆撃機搭乗員は経歴を隠し続けたが、原爆を投下したアメリカが一言も触れずに裁判を進めたのは典型的な事例である。

ドイツに勝利した連合国は、アメリカ主導の下に戦犯をA、B、C級の3つのカテゴリーに分けた。A級は平和を破り戦争を始めた罪、B級は国際法違反及び「戦争犯罪項目」該当の罪、C級は人道にもとる罪である。A級は国家指導者が主たる対象で、ドイツではニュルンベルク裁判、日本では極東国際軍事裁判(東京市ヶ谷で行われたため東京裁判とも呼ばれた)において審理された。C級はいわばドイツのユダヤ人虐殺関係者が対象で、日本には該当しなかったが、BC級という呼称で残った。東京裁判(A級)の起訴28人に対してBC級5644人、死刑判決では7人に対し934人にのぼるが、日本ではA級ばかりに関心が集まり、BC級は看過されてきたきらいがある。A級裁判がショー的雰囲気の中で、昭和とともに日本が歩んだ歴史そのものが裁かれたために日本人の注視を集めたが、それこそが連合軍側の狙いであった。この間に、大量死刑、大量長期禁固刑のBC級裁判が大車輪で行われていたのである。

BC級は、戦争中、戦場で発生した犯罪行為を裁くのが主な目的であり、そのため戦場になった国内と海外に法廷が設けられた。日本が「大東亜共栄圏」と豪語した広大な占領地に、米英などの7ヶ国が合わせて49ヶ所の法廷を設置し、その一つが横浜にも設置された。日本を遥かに離れた戦場で開かれた法廷は、主催国の言語、法律、倫理観で審理が進められ、弁護人も通訳もない被告が、孤立無援の中で判決を言い渡された例は枚挙にいとまがない。アメリカのような豊かな国の裁判では、被告は生活の心配をしなくてもよかったが、戦災にあった国は被告の面倒をみるどころでなく、近辺の日本軍の差し入れで食いつなぎながら、出廷する被告が多かった。

横浜裁判はアメリカの担当で、横浜球場の近くに開廷された。日本国内や沖縄諸島、小笠原における戦争犯罪行為を取り扱い、49ヶ所のなかで最も多くの事件を扱った。被告は生活面の不安も無く、通訳及び被告の心の拠りどころ役を務める仏教やキリスト教の教誨氏師もつけられ、僻地の裁判に比べれば恵まれていた。勝者と言う圧倒的優位の下では、敗者の主張も制度や文化の違いが災いして無視され、日本人に裁判を災害と思わせる一因になった。戦争犯罪の特徴の一つは、軍隊と言う組織の犯罪を個々の兵士の犯罪に替え、審理の効率化、時間の節約につとめたことである。そのため命令者だけでなく、実行する部下の責任が追及された例が少なくない。指揮官・上官が責任をのがれ、下士官・兵卒に責任を押し付けられたことは、日本人社会の信頼関係に亀裂を入れ、戦後社会に暗い影を落とした

判決が下りると刑の執行に移る。助命嘆願書や再審請求による刑の執行延期、再審による減刑も少なくなかった。だがいかなる条件が揃えば行われるのか曖昧であった。死刑執行は戦地でも可能だが、有期禁固刑になると、牢獄の用意、食事・生活用品の支給、警備等の負担が増える。各国は判決後に有期刑囚を巣鴨に送り、アメリカ及び日本の手で刑期を過ごさせることにした。巣鴨には東京裁判や横浜裁判で係争中の被告、海外法廷で有罪になった者を収容し、「スガモ」は戦犯の象徴的地名になった。

1952年4月、サンフランシスコ講和条約の発効とともに、戦犯追及をうたったポツダム宣言が失効した。講和条約発効前に駆け込み死刑があり、発効後に死刑を失効した国はない。有期刑囚の服役は巣鴨で続いたが、看守する日本人に代わり、食事も日本食に変わった。それまで遺族に支払われなかった遺族年金も支給が開始された。日本政府はアメリカ政府と交渉を続け、仮釈放の手法で実質的釈放に務め、1958年末までに全員の仮釈放を勝ち取った。最も熱心に交渉したのは、かって巣鴨にA級戦犯容疑で収容されていた岸信介元首相であった。戦犯は一般の刑事犯ではなく、命令した軍(国)に代わって刑罰を受けた犠牲者である。しかし講和条約発効後まで、極貧にあえぐ遺族に国は遺族年金も支払わず、一般日本人も犯罪者扱いをして、遺族を苦しめた。この点については、われわれ日本人も深く反省しなければならない。