サッカー、ラグビー、野球とソフト、アメフット、ハンド、バスケット、ホッケー、バレー、柔道にレスリングとボクシング、スピードとフィギュアスケート、スキー、卓球、弓道、トラックにフィールドの陸上競技、その他にもスポーツは各種あって、競技者はそれぞれ技術を磨き、体を鍛えて、覇を争う。春夏秋冬、毎日配られてくる新聞のスポーツ欄の記事は、スポーツ好きな私にはもう堪らない。スポーツ欄の記事を穴のあくほど真剣に読んでいる。
仕事や私事で、会場で観戦する機会は少ないけれど、テレビで観たり、写真を眺めたり、記事を読むだけでも、私の体にエネルギーが湧いてくる。悲喜こもごもの筋書きのないドラマに、大いに刺激を受けている。大げさではなく、そして、私は元気をもらって生きている。
私も、中学から大学まで勉強は程ほどに、でも真面目なサッカー競技者の一人であった。高校では、試合を前に選手11人を集めるのに四苦八苦した。そんなチームだったけれど部友はいつも仲良く結束していて、負け続けても負け続けても、又今度頑張ろうや、なんて言い合って翌日の練習の打ち合わせをしたものでした。監督は、釜本邦茂もメンバーの一人だった全京都選抜のキーパーを務めた岡本監督だった。この岡本先生の適度のいいかげんさが、私達を奮起させた。こういう指導方法もあるのだ。
大学では立派なチームに所属させていただいた。幸福者であったが、優秀なアスリートにはなれなかった。下手糞のままだった。生徒から学生になるまでの間、スポーツ競技の世界に身を置き続けたことで、学んだことは計り知れない。私を取り囲み、あれやこれや助言をしていただいた方々に、大いに感謝したい。先輩、全日本代表やそのクラスの人から簡単なことでも、極めて懇切丁寧に教えていただいた。同輩、よく付き合ってくれたものだ。後輩、常々叱咤激励してくれた。堀江監督からは競技の本質を教わった。受講していた科目を甘く採点していただいた。(ご迷惑をおかけしてしまった。ヤマオカ、あのレポートではどうしても優は点けられないヨ。可にしておいたゾ。恐縮、脱帽)。キングと言われていた工藤元監督からは、勝負に賭ける真髄、人間としての生き方を教えて貰った。(ヤマオカ、その走り方はなあんじゃ。ケツに糞でも挟んでいるのか)。個人だけではなく、意思を備えた「団体=チーム」からも、学び取ることは多かった。このように、私はいろんな人とかかわりながら、教わり成長させていただいた。人の縁に恵まれたのです。
スポーツを始めたきっかけはいろいろあるだろう。お父さんや、お母さんの手ほどきで始めた、お兄さんや、お姉さんがやっているのを見よう見真似で始めた、友人に誘われた、スター選手に憧れた、先生に声を掛けられた。松井秀喜やイチローはお父さんに教えられ、高校の恩師に、プロ球団の指導者等に薫陶を受け、もう一段、レベルの高い米国のメジャー球団に入った。そこでは指導をする、指導を受けると言った簡単な言葉で済まされない高度な交流なのだろう。競技者にとって指導者は、その重要性において不可欠な存在だろうが、競技以外の世界の人からもアドバイスを受けてそれをヒントにして新しい領域や技に足を踏み出した競技者もいただろう。大成した競技者にはその陰に必ず優秀な指導者がいる。子供をコーチする指導者に、指導者とは到底似つかわしくない呆れたコーチがいることも事実だ。傍から見ていて、そんなコーチなら居ないほうがいい、と思った経験もある。
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ここで、競技者とその周囲の人との縁を考えてみたいと思い起す新聞記事があった。それは、ソフトバンク前監督王貞治氏と、元全日本ラグビー日本代表大八木淳史氏に関する記事のことだ
ソフトバンクの王貞治前監督のお兄さんが、20日に亡くなったことの訃報の記事のなかで、この「縁」を考えさせられた。兄・鉄城さん(享年78歳)の通夜終了後、王前監督は「早稲田実業に入るときも巨人に入るときも、兄が私の意思を尊重してくれた。私の強い味方でした」と語った。野球で大げさに喜ぶと、いつも「相手の身になれ」と言われたという。お父さんも立派な人だった。兄が慶応大学の医学部の野球部に所属していて、大学の合宿に当時小学生だった王少年を連れて行ったとも聞く。王前監督には、偉大な選手になるのに必要な素地、下地が、選手になる前からあったのだ。荒川コーチとの共同作業による一本足打法の考案、川上監督や並みいるコーチ、指導者、ライバルで人気者の長嶋の存在も影響があっただろう。
大八木淳史氏が下の新聞記事によると、四国は高知の高校のラグビーチームのゼネラル・マネージャーとして、熱い指導に燃えている。このチームは彼が参加してから、成長猛々(たけだけ)しく、この冬に行われる高校ラグビーの全国大会に出場することになった。そのゼネラル・マネージャーになってからの経緯を著している。多分、彼がこの仕事を請われた時、きっと彼の頭の中には、高校時代の自分の姿を思い起こしたことだろう。彼が入学した伏見工業高校には、あの山口良治監督がいたのだ。彼は、この名物監督に学んだことを、自分を育ててくれた恩師への感謝の気持ちを、是非高知の高校で実践の形で表現したいと考えたのだろう。高校生にとって、さぞかし嬉しかったことだろう。この企画を思いついた人も、それに応えた選手、当の大八木氏に天晴(あっぱ)れのエールを送りたい。高知中央高校の本番での健闘を祈る。このようにして、この高校の生徒は立派なコーチに巡り会ったことに、この縁に感謝しなくてはイカンゾ。今も伏見工の総監督を務める山口良治先生にとって、教え子の活躍は至福の思いだろう。かっての神戸製鋼時代の大八木選手は迫力満点だった。そのいかつい体躯に愛嬌のある表情は、日本代表でも破格の人気者だった。
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20081223 朝日朝刊・スポーツ
楕円球が僕らを変えた/高知中央高校
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熱血教師がラグビーを通じて不良高校生を更正させ、人気を博した80年代のテレビドラマ「スクール・ウォーズ」。創部2年目で全国大会初出場を決めた高知中央は、そんなドラマを地で行くチームといえる。率いるのは、神戸製鋼の全盛期を支えた元日本代表のFWの大八木淳史。主演は「落ちこぼれ集団」といわれる21人の部員たちだ。
ラグビー経験者は数えるほどしかいない。大半は他の部活や他校をやめて入ってきた生徒たちだ。テニスやバスケットで挫折した選手や、高校受験の失敗などでぐれていた選手、親子関係で苦しんで越境入学した選手もいる。学校からの就任要請に、大八木GMは「そんな不遇な境遇にいたヤツ、楕円球に触れたこともないヤツらを、ラグビーで変えたい」と引き受けた。
1年目の昨年は、部員のモラルの低さに驚いた。練習の無断欠席は当たり前。ラグビーのルール以前に、学校や社会の規則を守れなかった。大八木GMは講演活動などで多忙の中、年間120日を高知で過ごし、高校生と向き合ってきた。携帯電話の番号を教え、「困ったことがあったらかけてこい」と対話の機会を増やしたという。夏合宿では大部屋で寝食をともにして、自らをさらけ出した。
CTBの浅利(2年)は言う。「大八木さんに会って、僕らは変わった」。口酸っぱく言われたのは「約束は絶対守れ」。ミスをチームメイトに押し付けていた選手たちが、自らの責任を追及するようになり、まとまった」。出場4校の予選を突破した。
「スクール・ウォーズ」の熱血教師のモデルは 、伏見工の山口良治総監督。大八木GMの恩師でもある。ラグビーを通じて人間育成したいという思いが、師弟の間を貫いている。
初戦は27日の平工(福島)。寄せ集めチームが勝てるほど花園は甘くない。それを知る大八木GMは「周りへの感謝の気持ちを忘れずにプレーしてほしい」と話している。(野村周平)
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12月27日、第88回全国高校ラグビー大会が大阪・近鉄花園ラグビー場で開幕した。大八木GM率いる、初出場の高知中央高校は、初陣を飾ることはできなかった。平工(福島)に12トライを奪われて、大量63点差で敗れた。防戦一方の試合でもなかったらしい、2トライを取ったのだ。大八木GMは「きれいなトライじゃないけれど、意義のあるトライだった」と選手達の頑張りを讃えた。
また、大八木GMは、「技術的にはまだまだだけど、精神面では向上した。これをチームの新しいスタートにしたい」と、今後に賭ける。また「もうドロップアウトの集まりと違う。花園の聖地を踏んだラガーとして育ってほしい」と、表情は誇らしげだった、と報道された。